彫刻家・田中等の日々雑感・最新情報
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☆今朝の宮崎日日新聞・文化欄に名寄の記事が載りました。
MIYANICHI PRESSでも見れます。
http://www.the-miyanichi.co.jp/contents/?itemid=5840&catid=74&blogid=13
MIYANICHI PRESSでも見れます。
http://www.the-miyanichi.co.jp/contents/?itemid=5840&catid=74&blogid=13
☆今日はよく晴れた一日でしたが、空気はとても冷たかったです。
そんな中、高鍋高校美術OB展のパンフレット原稿締め切りが間近なので、午後からいつものように海辺の防波堤の上で作品画像を撮ることにしました。
海へ行くと大潮で、多くの人たちが磯で牡蠣や海藻を獲っていました。
そこへ友人の寺子屋学習塾のU氏がタッパー一杯の牡蠣のむき身と袋一杯のミルを持ってあがってきました。
タッパーの中の牡蠣のむき身を見たとたんに喉がゴクリ。
実はこうして磯で牡蠣の殻から牡蠣の身を取り出して、その場で海水で洗って食べるのが一番旨いのです。
こう書いているだけで喉が鳴って狂おしくなります。
昔は私たちも良く磯でこうして牡蠣を獲ったものです。
先日も一つ前の大潮の夜には美術館長の兄も牡蠣を獲りに出かけて、食べきれないほどの収穫があったといいます。
海に潜って獲ると漁とみなされて漁業権が派生してくるのですが、こうして海から出た磯の物はだれでも獲ることが出来ます。
磯からは実にいい潮の香りが漂ってきます。
特に今の時期は磯に青海苔が張る時期でもあるので、いっそうたまらなく美味な磯の香りが強烈に迫ってきます。
☆肝心の作品画像です。出品するのはこのうちの1点です。
そんな中、高鍋高校美術OB展のパンフレット原稿締め切りが間近なので、午後からいつものように海辺の防波堤の上で作品画像を撮ることにしました。
海へ行くと大潮で、多くの人たちが磯で牡蠣や海藻を獲っていました。
そこへ友人の寺子屋学習塾のU氏がタッパー一杯の牡蠣のむき身と袋一杯のミルを持ってあがってきました。
タッパーの中の牡蠣のむき身を見たとたんに喉がゴクリ。
実はこうして磯で牡蠣の殻から牡蠣の身を取り出して、その場で海水で洗って食べるのが一番旨いのです。
こう書いているだけで喉が鳴って狂おしくなります。
昔は私たちも良く磯でこうして牡蠣を獲ったものです。
先日も一つ前の大潮の夜には美術館長の兄も牡蠣を獲りに出かけて、食べきれないほどの収穫があったといいます。
海に潜って獲ると漁とみなされて漁業権が派生してくるのですが、こうして海から出た磯の物はだれでも獲ることが出来ます。
磯からは実にいい潮の香りが漂ってきます。
特に今の時期は磯に青海苔が張る時期でもあるので、いっそうたまらなく美味な磯の香りが強烈に迫ってきます。
☆肝心の作品画像です。出品するのはこのうちの1点です。
☆今日は早朝は冷え込みましたが、陽が射してからはとても暖かい上天気となりました。
恵まれた気持ちの良い朝に日向まで走り、”お船出の湯”とケーキ屋さんで預かってもらっていた彫刻を取りに行きました。2作品ともそこにあって当然という感じですっかり馴染んでいました。特にケーキ屋さんでは子供たちからとても愛されていたそうで、店長さんはとても悲しげでした。私も辛い気持ちでしたが、いづれにしろ出来るだけ早急に預かり問題を解決しなければなりませんでしたので仕方ありません。
10時半過ぎに新しい移転先の高鍋町のポケットパークに到着しました。
設置してみると、いや断然こちらのほうが作品が生き生きとしてきました。ポケットパークの雰囲気も一気によくなりました。2作品ともこのポケットパークによく合います。
”いい作品が残ってくれていましたね。”
本当にそうですね。
右端の方がオーナーの千手さん。これだけの一等地の敷地を町民の皆さんのために解放してくださいました。
真ん中に居るのはこのポケットパークの造作を担当してくれた清水緑苑の清水君。同窓生です。
早速、千手さんのお孫さんが彫刻と遊んでくれました。これからは高鍋町の子供たちがたくさん遊んでくれるでしょう。
周りの状態です。東向かいは居酒屋とスナックです。
南面は幹線道路、町の中心部です。ここからすぐ近くには尾崎慎氏の作品も設置してあります。
岩崎町議も視察に来てくれました。
ブログに載せてくれると思います。
お披露目にこのポケットパークで何かイヴェントを打ちたいな、という話も出ています。
作家の渡辺さん、長澤さん、ご協力ありがとうございます。大事に預からせていただきます。
☆夕刻に少し制作を。
恵まれた気持ちの良い朝に日向まで走り、”お船出の湯”とケーキ屋さんで預かってもらっていた彫刻を取りに行きました。2作品ともそこにあって当然という感じですっかり馴染んでいました。特にケーキ屋さんでは子供たちからとても愛されていたそうで、店長さんはとても悲しげでした。私も辛い気持ちでしたが、いづれにしろ出来るだけ早急に預かり問題を解決しなければなりませんでしたので仕方ありません。
10時半過ぎに新しい移転先の高鍋町のポケットパークに到着しました。
設置してみると、いや断然こちらのほうが作品が生き生きとしてきました。ポケットパークの雰囲気も一気によくなりました。2作品ともこのポケットパークによく合います。
”いい作品が残ってくれていましたね。”
本当にそうですね。
右端の方がオーナーの千手さん。これだけの一等地の敷地を町民の皆さんのために解放してくださいました。
真ん中に居るのはこのポケットパークの造作を担当してくれた清水緑苑の清水君。同窓生です。
早速、千手さんのお孫さんが彫刻と遊んでくれました。これからは高鍋町の子供たちがたくさん遊んでくれるでしょう。
周りの状態です。東向かいは居酒屋とスナックです。
南面は幹線道路、町の中心部です。ここからすぐ近くには尾崎慎氏の作品も設置してあります。
岩崎町議も視察に来てくれました。
ブログに載せてくれると思います。
お披露目にこのポケットパークで何かイヴェントを打ちたいな、という話も出ています。
作家の渡辺さん、長澤さん、ご協力ありがとうございます。大事に預からせていただきます。
☆夕刻に少し制作を。
☆早朝はいつものように冷え込みましたが、今朝はフロントガラスも仕事場も凍っていませんでした。
日中は久しぶりに下着一枚になるほど暑くなりました。これで少しずつ暖かくなって、いつものように3月初めに大きな寒の戻りがあって本格的な春へ向かうのでしょう。
☆先日は気がつきませんでしたが、舞鶴公園の下を通ったら、あのおもちゃの木製の舞鶴城が消えていました。やっともとの城址公園に戻ってほっとしました。
でも今の高鍋町のことです。
ひょっとすると来月の桜祭りに向けてまた別のゲテモノが近々出現するのではないか・・・・・そちらの怖れが強いですね。
☆先日の作品をとりあえず玄関に置いています。
まあまあではないでしょうか。
☆今日の制作です。
日中は久しぶりに下着一枚になるほど暑くなりました。これで少しずつ暖かくなって、いつものように3月初めに大きな寒の戻りがあって本格的な春へ向かうのでしょう。
☆先日は気がつきませんでしたが、舞鶴公園の下を通ったら、あのおもちゃの木製の舞鶴城が消えていました。やっともとの城址公園に戻ってほっとしました。
でも今の高鍋町のことです。
ひょっとすると来月の桜祭りに向けてまた別のゲテモノが近々出現するのではないか・・・・・そちらの怖れが強いですね。
☆先日の作品をとりあえず玄関に置いています。
まあまあではないでしょうか。
☆今日の制作です。
☆今日はかなり頑固にフロントガラスが氷結していましたが、仕事場には氷はありませんでした。
陽が射してくると陽射しは暑かったのですが、気温はそれほど高かったようには思えません。ニュースでは宮崎市は14度と平年なみの暖かさだったといっていますが、高鍋はそれほど暖かくは感じませんでした。しかし夕刻の冷え込みはそれほどでもありません。
もうすぐ春ですが、真っ先に春が来て欲しいところは・・・・・・○○ですね。
まったく仕事がありません。
今日の制作です。自分の制作に掛かったのは午後過ぎてからです。
貴重な3インチダイヤカップ。私好みの道具です。特注です。もうあと1,2個しか在庫がありません。
夕刻の様子です。
☆今日は早朝は風が強くてとても冷えましたが、風が止むととても陽射しの暖かい陽気となりました。
昨日までの大理石の作品は、午前に仕上げの微調整をしてほぼ終了。
用意していた黒御影石での"The door of the wind”に掛かりました。
先日長崎に出品するのに作った黒御影石での作品が思ったより効果的で好評だったので、一回り大きいものを作っておくことにしました。
ノコで荒落としをして線描きをします。
大きな角を楔で落とします。
アールを出していきます。面の出せるUFO型ダイヤモンドがもう2枚ほどしかないので、溝切りはストレートタイプのダイヤモンド(こちらは4枚刃用に在庫がまだありました)を使って、無駄な消耗のないように作業を進めたいですね。
黒御影石はかなり硬いのですが、しかし柔らかく優柔不断な感じの大理石と比べると非常に素直に作業が出来ます。驚くほど気持ちよく作業が進みます。
やはり黒御影石が好きですね。
昨日までの大理石の作品は、午前に仕上げの微調整をしてほぼ終了。
用意していた黒御影石での"The door of the wind”に掛かりました。
先日長崎に出品するのに作った黒御影石での作品が思ったより効果的で好評だったので、一回り大きいものを作っておくことにしました。
ノコで荒落としをして線描きをします。
大きな角を楔で落とします。
アールを出していきます。面の出せるUFO型ダイヤモンドがもう2枚ほどしかないので、溝切りはストレートタイプのダイヤモンド(こちらは4枚刃用に在庫がまだありました)を使って、無駄な消耗のないように作業を進めたいですね。
黒御影石はかなり硬いのですが、しかし柔らかく優柔不断な感じの大理石と比べると非常に素直に作業が出来ます。驚くほど気持ちよく作業が進みます。
やはり黒御影石が好きですね。
☆今日も氷結の冷たい朝でしたが、日中はまったく風がなく、山もかすんで非常に穏やかな気候です。春ももうすぐそこまで、という気配です。
午前の作業も暖かく順調に進みました。
☆昼に帰宅すると、我が家と隣の消防機庫との間の排水溝がきれいにさらってありました。
今朝は早くから消防団の人たちが動いていましたのでこうした作業をされていたのでしょう。年に1度は私の知らない間にこうして排水溝がきれいになっています。頭が下がります。
HP日記のほうには何度か書いたかと思いますが、実はこの排水溝の底板は松の木です。
私自身も昔の家を壊すまでまったく知りませんでした。我が家のブロック塀と隣の塀(昔は宮崎日日新聞の高鍋支局であった)の間に雑草に覆われた異臭のするどぶだと思っていました。
家を壊して排水溝に工事の水を流し始めるとそこにきれいな松板が現れてびっくりしました。
近所の先輩たちに聞くと、昔は家庭排水もきれいでしたので今のような汚泥は無く、常に澄んだ水が流れていたということです。
これはきっと高鍋藩時代のものだろう(防火のための用水路整備は第四代藩主種政公の時にすでに整備されて今に活きている。)と思って、社会教育課に調査を依頼しましたが、とうとう何の報告もありませんでした。そのころ延岡市美術展の審査で延岡市の教育委員の方とお話したときに、それは江戸時代のものに間違いないですということでした。
ところが先年、先輩の久保昌也氏と話をしていたら、実は初代高鍋町長を務めた久保氏の祖父が整備したものだと分かりました。つまり明治初期のものであり、しかもきちんとした見識を持って整備されていたのです。この排水路はまた蓋をされて、生活通路としても使われていたのです。
次の画像の左側の側石には蓋をはめる切込みがあります。
そういえば私たちが小さいころはこうした排水溝の上が日常の通り道だったことを思い出します。
今はそれにコンクリートの蓋がされ、結果的に遺構が活きていることを知らない人々が途中から新築工事で埋めてしまうようになってしまいました。
こうしてまだ生活排水路として使われ、松板を見せているのは私の近所だけです。
なんとかこの排水路を文化遺産として活用できないものかと考えるのですが、うまく行きません。下水道が完備してしまうと排水が雨水だけになり、松板は枯れてしまいます。松板が保たれるのには常に水の中に浸かっていなければなりません。一度町政座談会の時にお話しし、会後に役場の方が見にこられましたがそれきりでした。
個人で水を流し続けるのは不可能です。
このままではいずれ忘れ去られてしまうでしょう。
目の前にある文化遺産が活かしきれない無念さ、です。
☆午後は仕事場へ戻ると冷たいつむじ風が吹き荒れはじめました。
工場の中へ場所を移して作業しました。
夕刻までにはほぼまとまりました。
仕上げは余り細かくすると肌が美しすぎるので、砥石の細めで止めました。
カッティング部は先日黒御影石の作品で試みたように目の細かいビシャンを当てたら落ち着きました。
午前の作業も暖かく順調に進みました。
☆昼に帰宅すると、我が家と隣の消防機庫との間の排水溝がきれいにさらってありました。
今朝は早くから消防団の人たちが動いていましたのでこうした作業をされていたのでしょう。年に1度は私の知らない間にこうして排水溝がきれいになっています。頭が下がります。
HP日記のほうには何度か書いたかと思いますが、実はこの排水溝の底板は松の木です。
私自身も昔の家を壊すまでまったく知りませんでした。我が家のブロック塀と隣の塀(昔は宮崎日日新聞の高鍋支局であった)の間に雑草に覆われた異臭のするどぶだと思っていました。
家を壊して排水溝に工事の水を流し始めるとそこにきれいな松板が現れてびっくりしました。
近所の先輩たちに聞くと、昔は家庭排水もきれいでしたので今のような汚泥は無く、常に澄んだ水が流れていたということです。
これはきっと高鍋藩時代のものだろう(防火のための用水路整備は第四代藩主種政公の時にすでに整備されて今に活きている。)と思って、社会教育課に調査を依頼しましたが、とうとう何の報告もありませんでした。そのころ延岡市美術展の審査で延岡市の教育委員の方とお話したときに、それは江戸時代のものに間違いないですということでした。
ところが先年、先輩の久保昌也氏と話をしていたら、実は初代高鍋町長を務めた久保氏の祖父が整備したものだと分かりました。つまり明治初期のものであり、しかもきちんとした見識を持って整備されていたのです。この排水路はまた蓋をされて、生活通路としても使われていたのです。
次の画像の左側の側石には蓋をはめる切込みがあります。
そういえば私たちが小さいころはこうした排水溝の上が日常の通り道だったことを思い出します。
今はそれにコンクリートの蓋がされ、結果的に遺構が活きていることを知らない人々が途中から新築工事で埋めてしまうようになってしまいました。
こうしてまだ生活排水路として使われ、松板を見せているのは私の近所だけです。
なんとかこの排水路を文化遺産として活用できないものかと考えるのですが、うまく行きません。下水道が完備してしまうと排水が雨水だけになり、松板は枯れてしまいます。松板が保たれるのには常に水の中に浸かっていなければなりません。一度町政座談会の時にお話しし、会後に役場の方が見にこられましたがそれきりでした。
個人で水を流し続けるのは不可能です。
このままではいずれ忘れ去られてしまうでしょう。
目の前にある文化遺産が活かしきれない無念さ、です。
☆午後は仕事場へ戻ると冷たいつむじ風が吹き荒れはじめました。
工場の中へ場所を移して作業しました。
夕刻までにはほぼまとまりました。
仕上げは余り細かくすると肌が美しすぎるので、砥石の細めで止めました。
カッティング部は先日黒御影石の作品で試みたように目の細かいビシャンを当てたら落ち着きました。