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☆夜明けまでは雨だったのでしょう。
朝のうちは外はびっしょり濡れていましたが明るくなってからは雲も切れ、午前10時くらいからは晴天となって暖かい春のような陽気となりました。
縁側で日向ぼこをしながら爪を切っていると、東京では大雪で飛行機も飛ばないというニュースがウソみたいに感じられ、申し訳ない気がしました。
しかし昼からは次第に風が強くなり、寒風が吹きすさぶとても寒い手の凍える午後となりました。
夕刻にはぴたりと風も止みましたが、じわじわと底冷えて来ています。宮崎も寒くなるのでしょうか。
今日の制作画像です。
やはり横に広げてみて正解かな。
☆今日は節分。
後ほど貧乏神を追い払うべく豆をまきましょう。
我が家の貧乏神はいたく我が家が気に入っているようで困ります。
で、結局、貧乏神は私でした。
☆北海道上川郡に移住した橋本聖志君(木城町出身の高鍋高校美術OB後輩、空港展参加作家)から、今日の雪景色が届きました。名寄に近いところです。
妙な縁で、彼と名寄で会います。
☆仕事をしながらFMラジオから流れてくる嘉門達夫の「明るい未来」を聞いていたらたまらない気持ちになった。
これまで何度か聞いたことはあるが、じっくりと聞くと私たちの未来が明るかった昭和の時代の情景がまざまざとよみがえってくる。いつもはギャグや替え歌ばかりの嘉門達夫だが、この歌の内容は余りにも切ない。
かってこれほど”昔は良かった”という歌が本当にそう思えてくる歌があっただろうか。
人類が生まれてからずっと、今の若いものは、昔は良かった、という思いが繰り返されてきたのだが、いまの状況はこれまでのどの時代ともまったく状況が違う。
これほどの電化生活、IT生活はこれまでの時代にはまったく無かったし、電化による便利な社会は昭和の時代には本当に明るい未来の世界だったのである。
ゆり戻し、という言葉がある。つまり方向性がおかしくなったものを一度逆戻りさせて正常な姿に保つ、たとえば現代の新建材による建造物などを昔の木造建造物のほうが良かったという回顧趣味によって木造住宅の建造が増えるような時に使うことが多い。人によっては余り意味の無い、単なる”昔は良かった”という懐古趣味の問題だと片付ける人も居る。
しかし、携帯やインターネットの出現した今の時代は、人類がかって経験したことの無い社会なのである。
そして、これから先の未来は決して明るいものには感じられず、多くの人々がこれ以上便利になる必要は無いと感じている。
確実に昔の手段のほうが良かったというものがいくつも明らかになってきている。
なんともいやな時代に生きてしまったな、とつくづく思う。
石油の大量消費による地球温暖化は、いやおう無く石油に頼りすぎてきた現代の人類に生活手段の見直しを迫ってきている。
いまの狂ってきた世のありようから考えると、3,40年で石油が枯渇して生活水準が後退してしまう未来は、むしろ人類の健全な社会へのゆり戻しになるのではないだろうか。
パソコンも携帯も無かった時代がどれほど人間的な社会であったか。
☆今日の制作です。
なかなか傷が取れません。
傷を取りながら、バランスも高さを下げてみました。
☆まだまだ寒さはこれからが厳しさを増しますが、逆に春も近づいていることになります。
ここ2,3日で我が家の庭の枯れ芝に青みが増し、雑草や樹木の新芽がぐんぐんと加速度を増して成長していっています。
つまり自然の摂理に従えば、人間の経済活動も厳しい冬の時代の向こうには春しかない、ということになるのですが・・・・
今日は久しぶりに朝から上天気で比較的穏やかな一日でした。
新作にかかりました。
今度は"The door of the wind"をずっと思い切り横に広げてみようと思います。
端材を使うのでどうしても傷が出てきます。傷を落とすと思ったより薄い形になってしまいました。
バランスは高さをもう少し低くしたほうがよいかな・・・・
☆余禄ですが、高千穂町へ行ってあの木花開耶姫像を見てきたという美術協会のYさんから高千穂の焼酎をもらいました。
これは東国原知事の名前にあやかったネーミングでまだいいのですが、いま問題になっている東国原知事の似顔絵の入った土産物産品。これが非常に問題なのです。高い上にまずいものが多い!宮崎の味のレベルを下げてしまっているのです!
昨暮れから我が家は法事で兄妹たちが帰省しましたが、彼らが一様に怒っていました。
宮崎から送られてくる東国原知事の似顔絵の入った物産品はとてもまずい!と。宮崎出身者は宮崎のオリジナルの旨さを知っています。しかし知事の似顔絵の入った品はどれもとてもまずい!
☆昨夜は私たち中町公民館の庚申講が行われました。高鍋町内でも庚申講を今も行っているのは我が中町だけのようです。
毎年、初庚申を目処に祭り日を決めて、各戸持ち回りで講宿となります。
まず近くの火産霊神社境内に祭ってある庚申碑でお参りをして、次に講宿の家で庚申碑にお神酒を注いで会食をします。以前は講宿で豪華な料理を用意して腰を据えて呑むのが習いであったようですが、家人への負担も大きいので、今では庚申講の料理3品のみを出すという決まりを定めて、2次会で会費制でゆっくり呑むようになりました。
今の時代の流れで、最初の講宿での会食も負担が大きいという意見も出てきて、今回もちょっとどうするかもめました。
しかし今夜の講宿での従来の形式がやはり一番いいというみんなの感想でした。
やはりこういう風習は一種の文化的遊戯ですので、ルールを定めて守っていくのがよいと思います。
節分の日に豆をまく行事を、ほかの3月や4月に他のものを撒いたって意味が無いように、庚申講も初庚申の日を目処に定型の行事を持続していくのがよいのではないでしょうか。あくまでも私個人の考えですが。
講宿では私の作った庚申碑にお神酒を注いで、みんなで回し呑みをします。こうした文化レベルの高い遊戯こそが、こうした祭礼の要ではないでしょうか。中町公民館が消滅するまで、みんなでこの風習を維持していってくれたらよいと思います。
これが中町の庚申宿での料理3品です。刺身、なます、煮豆の3品です。
講宿での会食を終えて、2次会会場へ場を移し、楽しく歓談です。会場は同じ中町の”たかなべギョウザ”です。
☆「核となるもの」
舞鶴城
舞鶴城は、「歴史と伝統の町」のシンボルとして、近隣の市町村にはない、優位性を持った、独自の個性、特徴を表すものであり、他の市町村では真似のできない、城下町としての気風を今に伝えています。
この気風こそが、高鍋町を文教の町とまで言わしめ、世に多くの優秀な先哲を数多く輩出させてきました。
また、舞鶴城跡の石垣の風景と水をたたえたお堀の風情は、高鍋町に住む人にとって、心和む「原風景」でもあります。
まさに舞鶴城こそは、高鍋町民の「心のふるさと」であり、高鍋町のビジョンを考える上で、揺ぎ無い柱、核となるものであります。
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実は以上の文章は、現高鍋商工会議所会頭の黒木氏が、副会頭時代に委員長を務めた地域再生プロジェクト委員会がまとめた「高鍋町のビジョン 地域再生へ提言」の中で、高鍋町のビジョンの核について述べられたものです。
今の高鍋町の現状を知っておられる方々で、このビジョンについて全面的に賛同される方がおられるでしょうか?
考えが間違っていると言いたいのではありません。
むしろ高鍋町民、高鍋出身者はみな同じ熱い思いでしょう。
問題は、こういう熱い思いを持っている人たちが行っている高鍋町の景観づくりが、まったく逆のことではないかという町民の苛立ちなのです。
”舞鶴城跡の石垣の風景と水をたたえたお堀の風情は、高鍋町に住む人にとって、心和む「原風景」でもあります。”
その「原風景」を、醜悪な石灯篭を設置してぶち壊したのはあなたたちではありませんか。
町民があれほど嫌がっているのに、一向に撤去しないあなたたちではありませんか。
さらに、その高鍋町のビジョンの核である舞鶴城の正面に、灯篭以上にみっともない木製のお城を置いて、観光客を迎えているではありませんか。
高鍋町の原風景を打ち壊し、核となる舞鶴城公園にオテモヤンのような醜い仮面をかぶせて、何が地域再生への提言でしょうか?!
(もっとも黒木会頭と私は旧来からの友人です。黒木会頭は私にとってもっとも信頼すべき友人です。したがって私の思いは黒木会頭に常に伝えてあります。ここで述べているのは黒木会頭への個人的な攻撃では在りません。)
先日の美術協会での懇親会でも、石灯篭以上に許せないこの木製のお城のことでみんなの憤りが沸騰しました。
高鍋出身の方々は、もっと卒倒するような憤りを感じられるのではないでしょうか。
こんな風景が「高鍋町のビジョン 地域再生へ提言」の中身と一致すると思われますか?!
画像は今日の画像です。
☆今日はお昼過ぎまで高鍋町美術協会展の受付当番でした。
もう一人の当番は陶芸の甲斐氏。
美術協会の花見の話になりました。いつも甲斐氏の工房である唐木戸陶苑で屋外で花見やそうめん流しを行って来ましたが、今回は場所を変えて趣向を替えてみたらという甲斐氏の提案。実際、準備や片付けも大変なのでしょう。
高鍋町有形文化財の高鍋藩家老屋敷・黒水家住宅で食事が出来、飲酒も構わないので、一度そこでみんなと呑みたいというのです。
実は私は高鍋町散策の旅で、昼食をこの黒水家住宅で摂ったらどうかという提案をしているのですが、食事をどう準備するのかといったことなどで、商店街連合会の面々がまったく乗り気になってくれず、地団太を踏んでいるところなのです。
ところが甲斐氏の話だと、昨年秋にモニターツアーが在って、黒水家住宅で食事を摂り、食事はホテル四季亭から立派なお膳が運ばれ、しかも商工会議所の企画だったというのです。
えっ!散策の旅も商工会議所が窓口ではありませんか。どうして会議所のモニターツアーでは私の願っているプランを実行し、散策の旅では何の手立ても打ってくれなかったのでしょうか。まるで私のプランがパクられたようで、すっきりしませんし、やりきれない思いです。私の提案のほうが早かったのですよ!(ネットで検索すると、黒木会頭になってからの”ひがしこゆ観光ネットワーク”のモニターツアーで、10月11日に行われたようです。「商工会議所ブログ」)
それで黒水家住宅を実地検分して、花見が可能かどうか下見をしましょう、ということで、受付終了後に2人で黒水家住宅へ向かいました。
恥ずかしながら、私はまだ一度も黒水家住宅には足を踏み入れたことは無かったのです。近くに在るといつでも行けるという思いから、意外と地元の人は地元のことを知らないものです。
管理人さん(現在は民間の老人クラブ?への委託)に事情を話し、家の中を見て回りました。
眺めるような立派な庭はありませんが、やはり歴史の町・高鍋に来て、家老屋敷でお昼を摂るというのは散策の旅の参加者にとっては、願っても無いことでしょう。
(しかし、散策の旅で実現したとしても、もう世間的にはモニターツアーの真似事にしかなりません。実に悔しいです。でも商工会議所には文句は言えません。散策の旅の企画主体は商店街連合会ですので、取り合ってくれなかった商店街連合会の理事会が不甲斐ないのです。)
以下、黒水家住宅の画像です。
左手の建物は、西南戦争の時に西郷軍への参戦に慎重な高鍋きっての識者たち「九烈士」が監禁された籾蔵が移設保存されているもの。
1階には投獄事件の様々な資料がある。
この2階の小部屋が手すりがあって回顧的空間で雰囲気があってよいのでは、という甲斐氏。
☆このブログに美術協会の石井さんからコメントをいただいていましたが、返信コメントの仕方が分からないので、この場でお礼を述べさせていただきます。
(なぜ、コメントがこのブログのスタート時の最初のページに書かれるのか、私自身が設定のことが良く分からないのです)