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昨日も今日も今にも降りそうな曇天でしたが日中には雨にはなりませんでした。
☆昨日は、午前に名寄の雪像コンクールの書類を作成したりで過ぎ、午後に台湾へ送る作品の手磨き仕上げをしました。
夕刻に海辺で画像を撮りました。
夜に梱包の木枠を作成しました。
☆今日は午前に少し仕上げで気になったところを手直しして昼過ぎまでに梱包を済ませました。
Cpajakが空港展に出品した作品を花蓮の知人の女性に送って欲しいということでしたので、一緒に梱包しました。
今日は送らず、明日の午前にでも発送しようと思います。
陣さんが船便で送って欲しいということだったのですが、いろいろ調べてもどこへ送ればよいのかわからないのです。今のところ調べた範囲では28kgの重量ではやはりEMSが一番安くて早いのです。
それでもう少し調べてみたいと思っています。
それで午後は、土曜日までに渡さなければならない飛び込みの小品にかかりましたが、アイデアが浮かばず手がつけられませんでした。
☆昨夜は高鍋町美術協会長の宮崎県文化賞受賞の祝賀会があり、3次会まで飲み歩いたので(私はさらに独り4次会でちゃんぽんを食べて帰った)、今日は一日宿酔がちです。
☆今日は久しぶりに朝から曇天でした。これから数日は天気が悪いようです。
曇天でも気温は高めです。お昼に一時雲が晴れて上天気になりましたが、晴れてくると一気に気温が上昇して暑いこと!Tシャツ一枚でも十分な暖かさでした。
☆朝一番に、まだ酔っている状態で石材店の霊標設置の仕事。先日持ち帰った官軍墓地へ担ぎ棒で担いでの設置でした。
☆台湾へ送る作品の台座を作り、ほぼ形は完成です。明日手磨きで終了です。
花蓮で制作した作品より横に広がった作品です。
上に伸ばすより横に広げたほうが安定するようです。
☆今日は火産霊神社の秋祭り。
昨日に引き続き、早朝からお出かけです。
午前8時から神社境内の清掃。
10時から祭典。11時から金毘羅神社祭典。おひるに直会(なおらい)という日程。
今日はとても暖かく、日中の陽射しは暑い!
金毘羅神社は私の仕事場の向かいの山の頂にあります。
もともとは金毘羅神社はこの火産霊神社の敷地にあったものだそうです。
そこへ火伏せのため(町場は大火が多かった)、近くの八坂神社にあった火産霊神社を今の場所へ移し、元からあった金毘羅神社を見晴らしの良い場所へ移したということです。ですから町から離れた山中にある金毘羅神社は町場の人たちが祭典をしなければならないのだそうです。
ここからは高鍋町内が見渡せます。
社の後ろにある大きな木は椎の木です。私たちは少年時代にこのあたりに椎の実を拾いに上がってきたものです。
この椎の木の根元に見慣れない石塔が置いてありました。
神官さんの話では、町場の旧家のT氏宅が古くなったので解体撤去し(私は先日から解体撤去されているこのT家を目のあたりにして、また貴重な文化財が失われていくと心を痛めていました。)、更地にして建売住宅地にされるということ。この石塔はT氏宅にあった氏神様で、撤去時には一応お祭りはしたのだが、捨てるわけにも行かず安置場所を相談されてこの場所に一緒に祭ってもらうようにしたとのこと。初めて見る形の石塔でした。
再び火産霊神社に戻って、境内で直会(なおらい)です。
太陽がぎらぎらとまばゆくて暑い陽射しでした。一献傾けて昼寝をしたら最高でしょうに。
神社の隣の旧家K家の建物です。こうした古い建物たちが日々朽ち果て、消えていく運命にあります。
天候にも恵まれ、人の出もまずまずで、商品完売の出店もいくつかありまずまずの成果でした。
私たちは朝7時から準備でした。
朝市の準備の間に、称専寺の住職から大変興味のある話を聞かせていただきました。
山門をやり替えたときに鐘楼も鐘楼台と鐘楼の土台部分をやり替えられたのですが、なんとその鐘楼の柱の土台石は私の父が20歳のときに作ったもので、曽祖父の指導の下での父の処女作だったというのです。
それで住職が破棄せずにこうして残してあるというのです。
右の丸い4つの石がそれです。
左の4つの円柱が乗っていた柱です。
この鐘楼の土台に使われていました。
朝市の風景です。
まだ朝市開始のころの画像なのでお客はまばらです。
私はこのおばちゃんの一夜干しのイカを買いました。すごくおいしかったですよ。
画面真ん中の山積みのキャベツもあっという間に完売。
”唐木戸陶苑”も思いのほか売れました。
なんとか商店街の風物詩として定着させたいものです。
宮崎は朝の冷え込みが厳しく、日中に風のない快晴の日は、日中の陽射しが痛いほどに強くなります。
空気が澄み切っているからでしょう。
今日はまさにそんな一日でした。
朝はとても寒かったのですが、日中はとても暖かく、日光を直接浴びるととても暑いのです。
ですから作業もシャツ一枚の姿になります。
職場の遠足で浜辺に行った妻は、海辺は海風で寒いだろうと防寒着を持っていきましたが、暑くてそんなもの着るどころではなかったということでした。
こんなに空が青い宮崎です。
東北は大雪のようで、申し訳ありませんね。
宮崎は日本で一番日照時間が長いのです。
ですからみんなお人よしの”日向ボケ”になるのです。
しかし私の作業場は向かいの山の陰がもう午後の2時半には迫ってきます。
午後2時半にして真冬の寒さに戻ってしまいます。
陽の高い夏場は早く陰ってくれ、と呪いますし、陽の低い冬場はもっと陽が差してくれと訴えずにはおれません。
いつの間にか白い大理石のあちこちに血が染まっていました。
あかぎれの血です。
昨日よりひどくなっています。
もう仕上げに入っているので注意しなければなりません。
昨夜はほとんど転送寸前だったのですが、いつの間にかPCの前で眠ってしまっていました。
時間が経つと書きかけのブログは消えてしまうようです。
今朝、改めて書いています。
☆昨日も一日好いお天気でした。
冬場になって太陽の位置が低くなると木々の葉表が陽光を受けてまばゆく輝いてきます。
冷たく澄んだ空気と葉表のきらめきが冬独特の風情をかもし出してきます。
そして体も正直なもので、ここ数日の寒さですぐに手に皸(あかぎれ)が出来てしまいました。
老化が進んで体の脂肪分が少なくなってきているのでしょう。
☆朝のうちに歯科医で差し歯を入れてもらいました。
台湾の硬い肉のおかげでずいぶんの出費を強いられました。
☆HP日記には何度も書きましたが、石材店の道向かいはお寺と墓地があります。
昨日は外で仕事をしていると、何か墓のほうから視線を感じてしまって妙な感覚でした。
これまでこんな感覚を感じたことはありません。
きっと冬の陽射しを受けて墓石たちが光っていたので、その光の圧力なのでしょう。
☆午後半ばに干していた洗濯物と布団を取り込みに帰宅して、再び仕事場に戻る途中で、最初の信号交差点で検問中の警察官が目に入りました。あわててシートベルトに手をかけたと同時に振り向いた警察官の目線が私を直視してしまいました。
手招きで停止命令です。
”今、家を出たばかりなんですよ!”
”お住まいはどこですか?”
”ほら、すぐそこの中町!”
”もう100メートルは走っているじゃないですか。家を出るときからシートベルトはしなくては駄目ですよ。”
かくして-1点でした。
ここ数年、無事故無違反だったのに。
☆昨日の制作の画像です。
夕刻からはどんよりと曇り空となり、それとともに冷え込んできました。
☆今日は朝のうちに、石材店の霊標の仕事で出かけました。
まず木城町の中心地に近い中川原墓地へ。
そこに祭ってあった地蔵様に注目!でした。
表情が良いとか出来がいいということではなく、法衣がきちんとごまかしなく作ってあって、しかも背面もしっかり彫ってあることに驚いたのです。
私が六地蔵を頼まれて最も時間をかけて資料を探し、非常に苦労したのがこの法衣の構造、そして背面の法衣の構造なのでした。
世に出回っている地蔵像の類は、この法衣の構造がいい加減であり、背面はほとんどのっぺらぼうでごまかしてあります。多分、法衣の構造がわからないからです。
私に六地蔵を依頼したY住職も、実際に自分で法衣を着てみたりして協力していただきましたが、結局は良くわからず、最終的には手に入るあらゆる仏像写真集や仏像制作入門書等から背面を導き出すことしか出来ませんでした。
この地蔵像の背面がわかれば私の六地蔵制作はもっと早く手がけることが出来たのです。
ところがこんなところにきちんと法衣が背面まで正確に彫り込んである地蔵があったのです。
次に高鍋町内の官軍墓地へ。ここは町外れの谷あいに沿った山手にある墓地です。
キャタピラーがやっと通る細い坂道しか搬入口がありません。
昔の石材店はこうした所を人力で墓を担ぎ上げたのです。
田舎の墓地はこんなところばかりです。
☆墓地から帰って、昼前に次男を内科医へ連れて行き、お昼に高校まで送りました。
帰路にホームセンターへ寄り、エアーホースを買い(これまでのホースが劣化してしまった)、道具類を物色しました。
Filinの使っていたアクションサンダー(ワンタッチでサンドペーパーを取り付ける)など、大理石での制作に有効な道具類を下見です。
やはり大理石には大理石加工用の工具類を使ったほうがはるかに効果的だと今回悟りました。
しかし、当分は何の仕事もないので、工具類を買うことは出来ません。
☆午後半ばから霊標の刻字作業。
そして夕刻に再び次男を高校へ迎えに行き(5校時は保健室で横になっていたようですが6校時には普通に授業をうけたとのこと。)、結局は今日は自分の制作は出来ませんでした。
宮崎市でも初氷を観測したそうです。
秋の入り口から一気に真冬に突入、という感じです。
☆寒いのでいつもより一枚上着を重ねて仕事に向かいましたが、陽が当たるとやはりそれなりに暖かくて、出来るだけ陽に当たりながら仕事をしたい。
それで外で制作できる方策を考えて、大口経のノコの刃を使って水平な場所を作って、そこで制作をしていくことにしました。
ところが制作場所が出来上がると、とたんにお日様が山の端に隠れてしまい、急激に寒くなりました。
そうなると真冬に着るジャンパーを重ねないと仕事は出来ません。
グラインダーもとても冷たく冷え込んで、凍える感じの制作でした。
石材店の仕事場の周囲の景観です。
(稲田の黄金色の輝きとススキの白銀の輝きが美しかったのですが、私の携帯の画像は明るい色はハレーションを起こしてほとんど色と形が飛んでしまい残念ですね。)
☆今日は朝からさわやかな快晴でとても暖かい陽気でした。
しかしお昼ご飯を食べている間に、にわかに天は真っ暗になって強い風が舞い、一気に底冷えの冬景色と変わってしまいました。
午後半ばには雲間も開いて陽射しが回復し、冷え込みも止まってくれました。
☆今日は一日、制作。
昨日から手がけた石が、上部に傷が出てきました。削岩機で割るときに出来る”起き”傷です。
結局は予定の作品には使えません。
また最初から石の取り直しです。
夕刻までには大まかな形だしと砥石磨きまで行きました。
作品はもちろん”The door of the wind”シリーズです。
☆花蓮で一緒だったSybilleからメールが届きました。
このブログにも書きましたように、彼女は最終日までに作品が間に合わず、シンポジウム終了後も残って作業を続けました。
そこでほかに居残ったRobertや台湾の若い作家・呉(Wu、通称MOMO)たちと親密な時間を過ごしたようです。
"I too have very fond memories of the time in Hualien, it was a lot of fun, especially nearer the end. I spent a few days afer the symposium with "Momo" and his friends, and I am determined to go back some time and maybe apply for a residency there.”
彼女はモモたちと過ごすうちに、また台湾へ戻ってきてレジデンス(滞在制作)する決心をしたというのです。
台湾の作家たちは本当に親切です。
また彼女はこう言います。
”Here it feels very cold after Taiwan, there is snow and ice already and I want to go somewhere else. How is the winter where you live?”
ヨーロッパはすでに真冬なのですね。Carolineもオーストリアはもう雪だと言って居ました。
そういえばTobelが台湾へ頻繁に来るようになったのは、ドイツの冬は寒いので、それで台湾で制作をするのだと言っていました。
台湾は暖かいし、物価も安いし、手助けしてくれる作家たちも居るし、ということなのでしょう。
Sybilleも同じスタイルを選ぼうとしているのかもしれません。
左からMomo、Sybille、事務局のWen、Tobelのアシスタント作家のWen
RobertとMomoはこんなに仲良し。まるでおじいちゃん(81歳)と孫(Momoは38歳)。