彫刻家・田中等の日々雑感・最新情報
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☆今、墓碑を頼まれていて、その参考サンプル収集や設置する墓所の下見等で墓地へ行くことが多くなりました。墓地には霊標の仕事でも行きますが、仕事中なのでゆっくり墓地を巡る時間はありません。
今頼まれている墓碑を建てる墓地は高鍋町内の元祇園墓地と言って、古くからの墓がたくさんあります。
(元祇園と言う名称は、今は八坂町にある祇園神社が元はこの墓地の隣にあったからだと言うこと)
この元祇園墓地には高鍋の歴史上の人物たちの墓も多く、墓地の入り口にはそうした著名人の墓所を記した看板や人物紹介の看板が立っています。
田中家の墓も同じ墓地なのですが、墓参りに行って帰るだけで、ゆっくり墓地全体を巡ったことはありませんでした。
今回の墓の依頼で初めてそうした著名人の墓の在り所を知った次第です。
これは高鍋藩の藩学の祖・山内仙介とその一族の墓です。
山内仙介については「高鍋藩史話」(安田尚義)にこう記述されています。
山内仙介は本名貞良、通称竹右衛門、後に仙介と称し源姓、元は毛利氏の臣で、天文年中(16世紀)毛利氏の女に従って秋月家に仕え、秋月家の転封に従い串間院に移ったのであった。仙介17歳にして学を志し、元禄十一年(1698)江戸に遊学し、居ること四年、同十六年尾張の泰雲寺の僧湛海に学び、さらに宝永二年(1705)京都に赴き、学成って帰郷したところを同四年藩主に召され、中小姓に列し知行三十石を給せられ、種政、種弘、種美三代に仕え経学を講じ、藩学の祖となった。明和六年年(1769)八十八歳をもって逝き墓は高鍋元祇園墓地にある。
次は日高耳水(1809~1847)、その妻・日高蔦子(1815~1871)および日高一族の墓です。
耳水(日高明実)は高鍋藩明倫堂教授、蔦子は歌人として有名です。
これらの歴史上の人物の墓の案内版、墓所に立つ説明柱は、この墓地と接する住まいのI氏が高鍋町役場勤務時代に整備・設置されたものだということですが、I氏が存命中はこれらの墓の管理・手入れをよくされていたそうです。(I氏奥さんの談話)
しかしI氏無き今はごらんのように草ぼうぼうです。
案内板・説明柱を見て訪れる人も多いでしょうに・・・・・
(確認したら、説明柱は平成18年4月設置という新しいものでした)
小澤冶三郎の墓も元祇園墓地にあります。
墓地を見て回るのはとても楽しいです。
やはり昔の清武石(凝灰岩)の墓がとても趣があって美しいのです。そして手彫りで彫られた文字も江戸時代のものもまだノミ跡がくっきりと際立っていますし、なにしろ文字の姿が美しいです。
古い墓を見ていると感動の連続です。
それに引き換え、いまどきの御影石のピカピカの墓石の何と味気ないことでしょう。特にこういう古い墓地の中にあると、床も全部御影石で覆ってしまった最近の仰々しい豪華版の墓は非常に無機質で近寄りがたい冷たさを感じます。
こんな魅力的な墓碑もあります。裏には個人名が大きく彫ってあるので個人の方の墓です。
仏様の右上の正体不明のレリーフは何なのでしょうか?
こんな危うい墓も。墓の主は遠方に住んでおられて、久しぶりに墓参されたのでしょう。
墓を持ち上げてしまった木の根っこを、ノコで途中まで切りいれておられますが、力尽きて諦めてしまわれたのでしょうか。町内に住んでおられる方ならこうなる前に対応されていたはずです。
墓のそばには木を植えるものではありませんね。
今頼まれている墓碑を建てる墓地は高鍋町内の元祇園墓地と言って、古くからの墓がたくさんあります。
(元祇園と言う名称は、今は八坂町にある祇園神社が元はこの墓地の隣にあったからだと言うこと)
この元祇園墓地には高鍋の歴史上の人物たちの墓も多く、墓地の入り口にはそうした著名人の墓所を記した看板や人物紹介の看板が立っています。
田中家の墓も同じ墓地なのですが、墓参りに行って帰るだけで、ゆっくり墓地全体を巡ったことはありませんでした。
今回の墓の依頼で初めてそうした著名人の墓の在り所を知った次第です。
これは高鍋藩の藩学の祖・山内仙介とその一族の墓です。
山内仙介については「高鍋藩史話」(安田尚義)にこう記述されています。
山内仙介は本名貞良、通称竹右衛門、後に仙介と称し源姓、元は毛利氏の臣で、天文年中(16世紀)毛利氏の女に従って秋月家に仕え、秋月家の転封に従い串間院に移ったのであった。仙介17歳にして学を志し、元禄十一年(1698)江戸に遊学し、居ること四年、同十六年尾張の泰雲寺の僧湛海に学び、さらに宝永二年(1705)京都に赴き、学成って帰郷したところを同四年藩主に召され、中小姓に列し知行三十石を給せられ、種政、種弘、種美三代に仕え経学を講じ、藩学の祖となった。明和六年年(1769)八十八歳をもって逝き墓は高鍋元祇園墓地にある。
次は日高耳水(1809~1847)、その妻・日高蔦子(1815~1871)および日高一族の墓です。
耳水(日高明実)は高鍋藩明倫堂教授、蔦子は歌人として有名です。
これらの歴史上の人物の墓の案内版、墓所に立つ説明柱は、この墓地と接する住まいのI氏が高鍋町役場勤務時代に整備・設置されたものだということですが、I氏が存命中はこれらの墓の管理・手入れをよくされていたそうです。(I氏奥さんの談話)
しかしI氏無き今はごらんのように草ぼうぼうです。
案内板・説明柱を見て訪れる人も多いでしょうに・・・・・
(確認したら、説明柱は平成18年4月設置という新しいものでした)
小澤冶三郎の墓も元祇園墓地にあります。
墓地を見て回るのはとても楽しいです。
やはり昔の清武石(凝灰岩)の墓がとても趣があって美しいのです。そして手彫りで彫られた文字も江戸時代のものもまだノミ跡がくっきりと際立っていますし、なにしろ文字の姿が美しいです。
古い墓を見ていると感動の連続です。
それに引き換え、いまどきの御影石のピカピカの墓石の何と味気ないことでしょう。特にこういう古い墓地の中にあると、床も全部御影石で覆ってしまった最近の仰々しい豪華版の墓は非常に無機質で近寄りがたい冷たさを感じます。
こんな魅力的な墓碑もあります。裏には個人名が大きく彫ってあるので個人の方の墓です。
仏様の右上の正体不明のレリーフは何なのでしょうか?
こんな危うい墓も。墓の主は遠方に住んでおられて、久しぶりに墓参されたのでしょう。
墓を持ち上げてしまった木の根っこを、ノコで途中まで切りいれておられますが、力尽きて諦めてしまわれたのでしょうか。町内に住んでおられる方ならこうなる前に対応されていたはずです。
墓のそばには木を植えるものではありませんね。
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