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彫刻家・田中等の日々雑感・最新情報
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☆今日は風もなく雲ひとつ無い快晴の暖かい一日でした。
木下大サーカスの期日指定の招待券を貰っていたので、午後はサーカスを見に行きました。
平日なので多くは年配の方たちでした。
私たちの年代は小さいころはまだテレビも無かったので、サーカスが生身の大スペクタクルで大変な人気を博していました。そして私たちもサーカスが来ると聞いただけでわくわくどきどきしたものです。
テントの中の皆さんは童心に帰って楽しんでおられました。
久しぶりに見た木下大サーカスは、かなり今風にショーアップされていてとてもスピーディーで驚異的で、思った以上に素晴らしいものでした。
招待券でタダで見るのが申し訳ないほどに素晴らしいサーカスでした。
(公演中は写真撮影は禁止ですので、画像は休憩中と外観のみです。)
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☆11月1日のブログで”もったいない・・・・”と書いた、撤退した繊維会社の跡地についての思いがけない展開です。
あれから程なくして同窓生のH君と飲んだときに、彼が突然この会社の社長の話を始めました。
会社自体は撤退したものの建物や敷地はずっと維持管理されていて、H君は電気の保安管理を委託されているというのです。
社長が時々こちらへ帰ってくることがあり、興味のある人物なので一度ゆっくり話したいし、私にも会う気持ちはないかというのです。
実は私は数日まえに会社の前を初めて通って、「いのちの丘」の彫刻がそのままになっているのにびっくりして、その素晴らしい空間が誰にも知られずに眠っていることがもったいないとブログに書いたばかりなのだ、是非社長に会って話を聞きたい、と答えました。
あまりにもグッドタイミングだったのです。

そして先日から高鍋に来られている社長と今日のお昼前に会えることになったのです。

11時半に約束をしてその会社”ハタダ”の敷地内に初めて入りました。
先に来ていたH君に畠田社長を紹介してもらいました。
私が何者であるか、そしてなぜ社長に会いたく思っていたかをお話しました。

社長と話していて、私が「いのちの丘」がそのままになっているのを知ってもったいないと思ったことと、H君がこうした面会の場を設定して呉れたことは、実は必然性によって曳きつけられたのだと言うことを知りました。

会社は今は上海で操業していて、社長もほとんど上海に住んで居られたと言うことです。2年前に胃の手術をされてから、やはり日本の食事がよくなり、日本に帰られることが多くなったということです。
そして何の活用もしていない高鍋の施設の活用法について真剣に考えられるようになられました。
これからは月に一度は帰って来られる予定でもあり、今回は管理を頼んでいる方が高齢になったので新しい管理人の面接もあって来町滞在されているということでした。
そして施設の有効活用方法について、昨日は役場を訪問され意見交換されたばかりなのだということです。
そこへ余りにものグッドタイミングで私が社長へ面会を求めてきたわけです。
つまり畠田社長が施設の高鍋町とのタイアップでの有効活用を求めて動き始められた波動が、私へ直接的に伝わってきたということなのです。

社長がこの施設、空間を高鍋町で有効活用して欲しいと願っておられることがはっきりしました。
社長も”もったいない”といわれます。
”もったいない”をキーワードにして行政、私たち町民で何とか有効活用を考えて行きたいものです。

建物の中を案内していただきました。
まるで美術館です。
彫刻の展示には最高の空間です。
私たち彫刻家もこの施設の利用を検討できるのではないのでしょうか。

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☆昼前に高鍋町美術館から転送設定してある携帯に電話がありました。
月曜日に、美術館の敷地内にある石井十次の「帰国途上の所感」碑のレリーフと上杉鷹山胸像に泥のようなものが掛けられているのを美術館の職員が発見し、水で洗い落としたがまだブロンズの様子が変なので見て欲しいということ。
すぐさま仕事場から自転車で美術館へ駆けつけました。
館長と副館長が雑巾でふき取っているところでした。
どうやら粘土質のグレーっぽい泥が塗りたくられていたようです。
美術館の周辺近場には無い泥なので、何者かが意図的に持ち込んだものに違いありません。
もし高鍋町民なら高鍋の偉人の像にこんなことをするなんて許せません。
幸い泥は綺麗に落ちましたので、午後からイボタ(ブロンズ像の表面に艶を出すワックス)をつけた布で手入れをしました。

泥を落として手入れをした後のブロンズです。
石井十次のレリーフです。
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上杉鷹山公胸像です。
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☆一体誰がこんな悪戯を・・・・と、思いながらもブロンズ像の方は無事に元通りになりました。
ところが夕刻になって再び美術館長から電話がありました。
”またやられた!”
えっ、こんな昼日中に?!
”犯人が見つかった!”
私は昼間に何か悪さをするとんでもない犯人は、ひょっとしてカラスかな、と思っていると、
”副館長が捕まえた。小学2年生だった、今学校に連絡したところだ。”

仕事を仕舞って自転車で美術館へ行くと、副館長と小学校の先生が水を掛けながら泥を落としているところでした。
館長はすでに帰宅し、最後に副館長が戸締りをして帰ろうとするところへ、2人の小学2年生が泥を塗りたくっているところを見つけたのだそうです。
田んぼの泥を持ってきて”遊び”でやったのだそうです。

「帰国途上の所感」碑にはまだべっとりと泥が。
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美術館の職員が撮られた無残な上杉鷹山公像です。
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私が行ったときには上杉鷹山公の胸像の泥は落とされていましたが、まだ胸の辺りに泥が残っています。
泥と一緒に胸のブロンズ色も落ちてしまっています。
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ホースで洗い落としてみると、砂と小石の混じった泥でブロンズの表面は傷だらけでした。

子供たちには学校で石井十次と上杉鷹山公の人となりと、公共物への意識を教育してもらわなければなりません。

それにしても発見のタイミングがずれていたら、発見は明日の朝になり、警察と新聞記者立会いでの”器物破損罪”での大騒ぎの”事件”になっていたところでした。

☆今朝はこの冬一番の冷え込みでした。
仕事場へ行くとバケツの中の水が凍っていました。
この冬の初氷です。
すでに日当たりの良い日向(ひなた)でしたので、結氷時はもっと厚かったのでしょう。
日中は風も雲も無くとても陽射しの暖かい(空気は冷たい)穏やかな気候です。
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☆チッパーのノミが折れてしまいました。
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☆今日はとても冷え込んだ一日でした。
午後は雲が多く、夕暮れると冷え込んだ真冬独特の美しい夕焼け雲になりました。
仕事場からみた月と雲です。
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☆昨夜は高鍋町自治公民館長の研修会(「振り込め詐欺」等について)が行われ、会後に懇親会が催されました。
懇親会では隣の席が高鍋町史友会会長の飛田先生でした。
先日のブログに載せた日高耳水と山内仙介の墓のことなどお尋ねしてみました。
こうした先人の墓は町内の各所の墓地に多くあるわけですが、多くは、飛田先生が高鍋に帰ってこられるまでは墓を守る子孫も高鍋には居ず、荒れ放題だったそうです。
平成18年に建てた標柱も古くなって朽ちていたのを新しくされたのだそうです。
少ない史友会の会費と役場からの補助でやりくりしているのでなかなか大変だと言うことでした。
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アトラクションで隣町の木城町から、福智王伝説を歌と踊りで表現したものを披露にこられました。
こうした歴史を積極的に今に活かしていこうという姿勢はとても評価しますが、いくつか気になることがありました。
と言うのは、初めに「田の神(かん)さあ」という歌と踊りを披露されたのですが、石像としての「田の神さあ」は旧島津藩であった西諸、北諸、東諸の諸県地方でしか祀られていません。「田の神さあ」という言い方自体が諸県弁だ、と飛田先生は言われます。(東国原知事がドゲンカセントイカンと言うのを宮崎弁だというのが、そうではなく諸県弁だといつかこのブログに書いたのと同じです。)
つまりこの児湯郡にはいわゆる「田の神さあ」は存在しないのです。
ただ歌っているのはどうも吉幾三で歌詞も東北地方の内容です。宮崎の諸県地方の「田の神さあ」とは関係ないようです。
私たちは「田の神さあ」と言えばあの諸県地方の独特な石像を思い浮かべてしまいます。
こういう混乱はどうなのでしょうか。
(しかしネットで調べてみると「田の神さあ」という表現をするのはやはり旧島津藩領だけです。)

それに福智王の百済伝説も、この創作歌詞にも書かれ一般にも流布している”戦いに敗れて追われて逃げてきた百済の王族が嵐で難破して高鍋に流れ着いた”という伝説の”戦いに敗れて追われて逃げてきた”というくだりは史実とは違うのだ、と飛田先生は指摘されます。
一度きちんとした史実を確認したほうが良いかもしれません。
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☆北京の清華大学芸術学院美術館で開催されていた中日韓コンテンポラリーアート芸術交流展の画像が林勝煌氏から届きました。(11月17日~24日開催)

ポスターです。このブログでも紹介した林氏のシンポジウム作品が使われています。
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私はブロンズの「MOON DANCE」を出品しました。
私の作品の後方には台湾の甘丹や黄河の作品が見えます。
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これは林勝煌氏の作品です。
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ウェブサイトでも作品が見れます。
http://www.diaosunet.com/news/news_detail.asp?newsid=2018&page=3
 
http://www.diaosunet.com/news/news_detail.asp?newsid=2018&page=1
☆今、墓碑を頼まれていて、その参考サンプル収集や設置する墓所の下見等で墓地へ行くことが多くなりました。墓地には霊標の仕事でも行きますが、仕事中なのでゆっくり墓地を巡る時間はありません。
今頼まれている墓碑を建てる墓地は高鍋町内の元祇園墓地と言って、古くからの墓がたくさんあります。
(元祇園と言う名称は、今は八坂町にある祇園神社が元はこの墓地の隣にあったからだと言うこと)
この元祇園墓地には高鍋の歴史上の人物たちの墓も多く、墓地の入り口にはそうした著名人の墓所を記した看板や人物紹介の看板が立っています。
田中家の墓も同じ墓地なのですが、墓参りに行って帰るだけで、ゆっくり墓地全体を巡ったことはありませんでした。
今回の墓の依頼で初めてそうした著名人の墓の在り所を知った次第です。

これは高鍋藩の藩学の祖・山内仙介とその一族の墓です。
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山内仙介については「高鍋藩史話」(安田尚義)にこう記述されています。

山内仙介は本名貞良、通称竹右衛門、後に仙介と称し源姓、元は毛利氏の臣で、天文年中(16世紀)毛利氏の女に従って秋月家に仕え、秋月家の転封に従い串間院に移ったのであった。仙介17歳にして学を志し、元禄十一年(1698)江戸に遊学し、居ること四年、同十六年尾張の泰雲寺の僧湛海に学び、さらに宝永二年(1705)京都に赴き、学成って帰郷したところを同四年藩主に召され、中小姓に列し知行三十石を給せられ、種政、種弘、種美三代に仕え経学を講じ、藩学の祖となった。明和六年年(1769)八十八歳をもって逝き墓は高鍋元祇園墓地にある。

次は日高耳水(1809~1847)、その妻・日高蔦子(1815~1871)および日高一族の墓です。
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耳水(日高明実)は高鍋藩明倫堂教授、蔦子は歌人として有名です。

これらの歴史上の人物の墓の案内版、墓所に立つ説明柱は、この墓地と接する住まいのI氏が高鍋町役場勤務時代に整備・設置されたものだということですが、I氏が存命中はこれらの墓の管理・手入れをよくされていたそうです。(I氏奥さんの談話)
しかしI氏無き今はごらんのように草ぼうぼうです。
案内板・説明柱を見て訪れる人も多いでしょうに・・・・・
(確認したら、説明柱は平成18年4月設置という新しいものでした)

小澤冶三郎の墓も元祇園墓地にあります。
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墓地を見て回るのはとても楽しいです。
やはり昔の清武石(凝灰岩)の墓がとても趣があって美しいのです。そして手彫りで彫られた文字も江戸時代のものもまだノミ跡がくっきりと際立っていますし、なにしろ文字の姿が美しいです。
古い墓を見ていると感動の連続です。
それに引き換え、いまどきの御影石のピカピカの墓石の何と味気ないことでしょう。特にこういう古い墓地の中にあると、床も全部御影石で覆ってしまった最近の仰々しい豪華版の墓は非常に無機質で近寄りがたい冷たさを感じます。

こんな魅力的な墓碑もあります。裏には個人名が大きく彫ってあるので個人の方の墓です。
仏様の右上の正体不明のレリーフは何なのでしょうか?
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こんな危うい墓も。墓の主は遠方に住んでおられて、久しぶりに墓参されたのでしょう。
墓を持ち上げてしまった木の根っこを、ノコで途中まで切りいれておられますが、力尽きて諦めてしまわれたのでしょうか。町内に住んでおられる方ならこうなる前に対応されていたはずです。
墓のそばには木を植えるものではありませんね。
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☆私が韓国・ASAN滞在中に、事故車が「つくみやフルーツ」の店舗に飛び込んできて破損した私の作品を、夕刻に撤去しました。昨日、保険の担当者と打ち合わせしたところ、査定が難航しているが作品は撤去してもよいと言うことでした。
今日から久しぶりに石材店の仕事場での作業に復帰しましたので、個展以来片付いていなかった仕事場を片付けるついでに、この作品も撤去しました。
もう石材店にはクレーントラックが無いので手で抱えて車に乗せなければなりません。
「つくみや」店主の岩崎議員と道向かいの相馬印はん店の相馬君に手伝ってもらって何とか積むことが出来ました。
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☆今夜の「たまゆら」は右へ走っています。
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☆今日は第17回高鍋町散策の旅が行われました。
時々雲に覆われましたが、風があって雲の流れが速く、おおむね好い天気に恵まれました。
まずは高鍋町美術館で開催中の「米倉斉加年の世界展」から始まりました。
美術館で開式です。
(ガイドの石井正敏氏の足元に「たまゆら」が1個)
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美術館を出て城堀を巡ります。
やはり城堀は高鍋の顔でしょう。
歴史の生字引の石井正敏氏の滋味あるガイドが魅力的です。
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次は小澤冶三郎生家の予定でしたが、その前に古民家を上手く再生して居られる久米酒店にアポなしで寄らせてもらいました。
古い趣のある家が次々と消えていく中、行政に頼らず個人の力で古民家を再生して使っておられる久米酒店の事は過去にHP日記でも紹介したことがありますが、そのときから是非、この散策の旅のルートに久米酒店を入れたいと思っていました。
しかし当時はルートから離れていたので組み入れるのはほぼ困難だったのですが、今は斜め道向かいの小澤冶三郎生家がルートに入ったことで可能となりました。
参加者の反応もとてもよかったので、今後のルート組み入れを検討できれば、と思います。
この店舗の方の家屋は築150年、中庭を挟んでの奥の家屋は築100年と言うことです。
見事な材と作りです。
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次に予定ルートの小澤冶三郎生家です。記念写真を撮って、管理者の藤沢氏の説明を聞きます。
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商店街は岩崎議員がガイドをしてくれました。中町商店街ポケットパークの尾崎慎氏の作品についても丁寧にいきさつを説明していただきました。
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そして午前の最終ルートの黒木本店見学です。
今日は黒木社長が在社していて、直接挨拶をしていただきました。
黒木社長(商工会会頭)と参加者との軽妙なかけあいトークが絶妙でした。
いつも社員の皆様に親切にしていただきとても感謝します。
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お昼は蚊口浜の「秋山商店」で、シーズン到来となった高鍋の牡蠣料理でした。
焼き牡蠣はまだ潮が温(ぬる)かったかなと思います(塩味が薄い)。やはりもっと寒くなって牡蠣の身が引き締まると旨みも増し、潮も濃くなって焼き牡蠣は最高の味となります。
今年は身の生育がとてもよいそうです。
この冬は是非、高鍋の牡蠣を食べにおいでください。
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午後のコースは持田古墳群でした。
過去にも古墳祭に合わせて散策の旅を企画したことはあったようですが、今回は単独に古墳の見学を入れました。今までに無い趣向ですが、高鍋の古墳時代からの歴史の顔を知ってもらう好企画でした。
これは持田古墳群でもっとも大きい計(はかり)塚です。全長120mの前方後円墳です。
この位置からは初めて見ました。
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これは私によっては非常に大切な位置づけを持つ石舟古墳です。こちらも前方後円墳ですが、この右の木の下に、江戸時代に盗掘された石棺がその後完全に掘り出されて、雨晒しで置かれていました。その石棺の中にベンガラが塗られていて、長い時を経ても鮮やかに残っていたのが、私の”再生”シリーズでベンガラを使うきっかけとなったのです。
その石棺は今はリニュアルした西都原資料館に持っていかれてしまいました。
ようやく返却の方向になったそうですが、きちんとした資料館を作らないと返却しないという条件がつきました。
つまりあの木の下に置かれていた石棺の美しい情景は2度と見ることが出来なくなったのです。
でも石舟古墳もこの角度で見るのは初めてですし、周囲はもっと林に囲まれた素敵な雰囲気で、こんなに開けっ広げな畑に接していた記憶はありません。
社会教育課の山本氏の説明を聞いて合点がいきました。10年ほど前に今の状態に畑地が整備されたのだそうです。それで失われた古墳の遺構もいくつかあるのだそうです。
私が40年前によく訪れて心を癒されていた美しい風景はもう失われてしまっていたのです。
古墳だけは文化財で県の所有地だそうですが、畑は個人の所有地なので、古墳だけを残して周囲の景観は完全に作り変えられてしまっていたのです。
なんとも哀しい現実でした。
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これは社会教育課の山本氏が一つずつ手作業でマーキングをされ参加者に配ってくださった持田古墳群の配置図です。
以前に故・吉本町長が、持田古墳群の古墳が北斗七星の形で配置されている、とロマンを込めて語っていたことがあります。
確かにこの配置図を見ると北斗七星の形に並んで見えます。
しかし古墳時代は約300年間続き、上述の計塚と石舟塚には100年の築造時代差があるそうです。(計塚が初期)そして築造場所も地形に沿って作られているので、古墳時代の人々が300年もの間を北斗七星の配置思想で作っていったと考えるのは、無理があるように思います。
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そして今日の最終コースは最近再び脚光を浴び始めている”高鍋大師”です。
この高鍋大師は持田古墳群の盗掘を嘆いた故・岩岡保吉氏が昭和9年に開山し、以来大小700余体もの石像を刻み設置してきた独特な空間で、亡くなった美術評論家の田中幸人氏をはじめ多方面から絶賛されて居ます。彫刻家の皆さんにもよく知られた場所です。
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本堂は今は無人となり、信者や血縁の方たちによって管理されていますが、かつては高鍋町民の老若男女を問わず多くの人々が日々訪れる憩いの空間でした。
あんな自由な空間はもうどこにもありません。
光がいっぱいあふれていた記憶があります。
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本堂には、火の玉で焼けた帽子とか、地下通路とかわくわくするものがいっぱいありましたが、地下通路は閉鎖され、つい先年まであった火の玉で焼けた帽子ももうありませんでした。

今日の散策にの旅はこれまでとは表情の違った企画でしたが、こういう企画でなければ高鍋町民ですら体験できない内容の濃い企画であったと思います。
参加者の半数はリピーターですが、一度参加されると熱烈な散策ファンになられるようです。
お天気にも恵まれ、これまでとはまた違った高鍋の好さを体験してもらえたことと思います。

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