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これまでの墓碑に納骨堂を加えて嵩上げする工事です。
かなり手間のかかる仕事でした。
納骨堂を組んでいきます。
天板の設置を終え、墓碑本体を載せます。
墓碑本体の底には基礎接着のモルタルや目地セメントがこびりついているので、それらを落とさなければなりません。
無事に墓碑本体がすわりました。
新しい納骨堂に大上さんに納骨していただきました。
このお話を頂いた時に、私はせっかくのバランスが崩れてしまうと思いました。
しかし組み上げてみると、実に堂々とした重厚な風格のある墓碑になりました。
私自身も意外な結果に驚き、安堵しました。
そして大上ご夫妻も大変喜ばれ、満足していただきました。
☆余禄です。
墓地にある、おそらく周りの墓の銘から、享保年間か天保年間あたりの野仏。
実に表情が好いですね。
やはり昔の墓はとてもいいですね。
墓地を散策しているととても落ち着きます。
それに引き換え、今の御影石の墓碑は文字も機械彫り、そしてテラテラに磨かれた安っぽい光沢のいろんなものがごちゃごちゃにくっついてしまって、まるでバロック時代みたい。
そんなことを思いながら逍遥していると、小さな祠が目に付きました。
何がお祭りしてあるのだろうかと覗いてみると、古い大師坐像に首が新しく継げ替えられたものが鎮座していました。
ところが、あれっという驚き。
なんだか見覚えがあるのです。
この耳の作り方は私のものです。
水色の接着剤も、私が陶板壁画の工房で働いていた時に使っていたものです。
若い頃の私が作ったもののようです。
建立してから実に5ヵ月後にようやく完成した墓地を見ることが出来たわけです。
樹木の下にある墓地ですので、落ちてきた枯れ葉が溜まらないようにという依頼主の意向で敷地をフラットにしました。
しかし墓碑本体と背後の既設の墓3基との間が吹き溜まりになって、かなりの枯れ葉が溜まり、特に今年の宮崎はずっと雨続きだったそうですので、予想以上に汚れてしまっていました。
環境的にはいたし方無いのかもしれません。
☆墓地は日向灘と日豊本線に挟まれた海岸沿いにあります。
今日は台風の影響でしょうか、海はかなり波が荒れていました。
今回の墓地(宮崎霊園)の建立区域は指定業者しか建てられないという事情があり、私は墓碑となる作品を提供するだけで、墓地全体の設計施工は宮崎市の高瀬石材にお願いしました。
私の設置したこれまでの墓地のスタイルを参考に、私の作品に合わせて依頼主の緒方さんと5回ほどのプラン変更を重ねて、設計施工したいただいたと言うことです。
またトルコへ行く前に建立した川添家の墓同様に、○○家という刻字は一切無く、あくまでも私の彫刻が主体と言う緒方さんの依頼でした。
これまでにないスタイルの墓が、安藤家墓から3件続いたことになります。
これからこういうスタイルの墓が増えていくのでしょうか。
今日の午後に納骨が行われました。
これまで墓碑本体に○○家という文字を刻んでいたのですが、今回は設置主の希望で完全に”作品”としての墓碑本体となりました。
しかも、テヘランで制作したのと同じマケット(模型)からの制作となりました。
昨夕は満月がこの背後から昇り、扉の間にぽっかりと満月が浮かびました。
白百合の花と墓碑がとてもよく合って、上品な墓碑となりました。
参列された皆さんに大変喜んでいただけました。
ところが、納骨の段階になって大変なミスが発覚。
納骨は台座の後ろの納骨口から骨壷を入れます。
設計の段階できちんと骨壷の大きさを調べて、慎重に納骨口の大きさを割り出したはずなのですが・・・・
しかし、昨夕の夕落ちてからの設置作業で、うっかりこの納骨口の大きさを確保しなければならないことを忘れてしまって、台座を後ろにずらしすぎてしまったようでした。
骨壷が入らなかったのです。
とりあえず遺骨の一部を納めさせていただきました。
近日中に、納骨口を広げる加工をしなければなりません。
☆ようやく今日になって墓碑が建ちました。
石屋さんが腰を痛めてしまって、今日まで作業が出来なかったのだそうです。
墓の主の岩下君は幼稚園のころは一番の仲良しでした。
こうして急逝した彼の墓を幼馴染の私が作ることになったわけです。
奥さんもすっきりした墓碑に満足してくれました。
☆石屋さんが建てこみをしている間に周囲の古い墓を見て廻りました。
古い墓は本当に味があってとても面白いです。
いくつか気になった墓の画像をUPします。
この墓の蓮華台座はこれまで見たことも無い形です。
享保年間の墓です。丸い二つの穴は何を意味するのでしょか?
これも無縁墓?
これは角力行司とある無縁墓です。
出身地が山口県吉敷郡云々とあり、明治二十九年、行年十八歳とあります。
ひょっとして角力(相撲)興行に行司として来て、この地で病かなにかで亡くなり、丁寧に祀られたあと無縁墓となったのでしょうか。
隣の墓と同じ石で同じ作りの墓です。没年はまったく違いますが・・・・
私の曽祖父の梅吉は明治十八年ころに高鍋に来ていますので、ひょっとするとこの三輪何某という若い行司が軍配をあげる角力(相撲)興行を見たかもしれません。いや、娯楽の少ない時代です、きっと見たでしょう。
なにか物語が見えてきそうな無縁墓ですね。
今頼まれている墓碑を建てる墓地は高鍋町内の元祇園墓地と言って、古くからの墓がたくさんあります。
(元祇園と言う名称は、今は八坂町にある祇園神社が元はこの墓地の隣にあったからだと言うこと)
この元祇園墓地には高鍋の歴史上の人物たちの墓も多く、墓地の入り口にはそうした著名人の墓所を記した看板や人物紹介の看板が立っています。
田中家の墓も同じ墓地なのですが、墓参りに行って帰るだけで、ゆっくり墓地全体を巡ったことはありませんでした。
今回の墓の依頼で初めてそうした著名人の墓の在り所を知った次第です。
これは高鍋藩の藩学の祖・山内仙介とその一族の墓です。
山内仙介については「高鍋藩史話」(安田尚義)にこう記述されています。
山内仙介は本名貞良、通称竹右衛門、後に仙介と称し源姓、元は毛利氏の臣で、天文年中(16世紀)毛利氏の女に従って秋月家に仕え、秋月家の転封に従い串間院に移ったのであった。仙介17歳にして学を志し、元禄十一年(1698)江戸に遊学し、居ること四年、同十六年尾張の泰雲寺の僧湛海に学び、さらに宝永二年(1705)京都に赴き、学成って帰郷したところを同四年藩主に召され、中小姓に列し知行三十石を給せられ、種政、種弘、種美三代に仕え経学を講じ、藩学の祖となった。明和六年年(1769)八十八歳をもって逝き墓は高鍋元祇園墓地にある。
次は日高耳水(1809~1847)、その妻・日高蔦子(1815~1871)および日高一族の墓です。
耳水(日高明実)は高鍋藩明倫堂教授、蔦子は歌人として有名です。
これらの歴史上の人物の墓の案内版、墓所に立つ説明柱は、この墓地と接する住まいのI氏が高鍋町役場勤務時代に整備・設置されたものだということですが、I氏が存命中はこれらの墓の管理・手入れをよくされていたそうです。(I氏奥さんの談話)
しかしI氏無き今はごらんのように草ぼうぼうです。
案内板・説明柱を見て訪れる人も多いでしょうに・・・・・
(確認したら、説明柱は平成18年4月設置という新しいものでした)
小澤冶三郎の墓も元祇園墓地にあります。
墓地を見て回るのはとても楽しいです。
やはり昔の清武石(凝灰岩)の墓がとても趣があって美しいのです。そして手彫りで彫られた文字も江戸時代のものもまだノミ跡がくっきりと際立っていますし、なにしろ文字の姿が美しいです。
古い墓を見ていると感動の連続です。
それに引き換え、いまどきの御影石のピカピカの墓石の何と味気ないことでしょう。特にこういう古い墓地の中にあると、床も全部御影石で覆ってしまった最近の仰々しい豪華版の墓は非常に無機質で近寄りがたい冷たさを感じます。
こんな魅力的な墓碑もあります。裏には個人名が大きく彫ってあるので個人の方の墓です。
仏様の右上の正体不明のレリーフは何なのでしょうか?
こんな危うい墓も。墓の主は遠方に住んでおられて、久しぶりに墓参されたのでしょう。
墓を持ち上げてしまった木の根っこを、ノコで途中まで切りいれておられますが、力尽きて諦めてしまわれたのでしょうか。町内に住んでおられる方ならこうなる前に対応されていたはずです。
墓のそばには木を植えるものではありませんね。