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彫刻家・田中等の日々雑感・最新情報
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☆今日も氷結の冷たい朝でしたが、日中はまったく風がなく、山もかすんで非常に穏やかな気候です。春ももうすぐそこまで、という気配です。
午前の作業も暖かく順調に進みました。
2008_0217_039.jpg






















☆昼に帰宅すると、我が家と隣の消防機庫との間の排水溝がきれいにさらってありました。
今朝は早くから消防団の人たちが動いていましたのでこうした作業をされていたのでしょう。年に1度は私の知らない間にこうして排水溝がきれいになっています。頭が下がります。
HP日記のほうには何度か書いたかと思いますが、実はこの排水溝の底板は松の木です。
私自身も昔の家を壊すまでまったく知りませんでした。我が家のブロック塀と隣の塀(昔は宮崎日日新聞の高鍋支局であった)の間に雑草に覆われた異臭のするどぶだと思っていました。
家を壊して排水溝に工事の水を流し始めるとそこにきれいな松板が現れてびっくりしました。
近所の先輩たちに聞くと、昔は家庭排水もきれいでしたので今のような汚泥は無く、常に澄んだ水が流れていたということです。
2008_0217_040.jpg























2008_0217_041.jpg






















これはきっと高鍋藩時代のものだろう(防火のための用水路整備は第四代藩主種政公の時にすでに整備されて今に活きている。)と思って、社会教育課に調査を依頼しましたが、とうとう何の報告もありませんでした。そのころ延岡市美術展の審査で延岡市の教育委員の方とお話したときに、それは江戸時代のものに間違いないですということでした。
ところが先年、先輩の久保昌也氏と話をしていたら、実は初代高鍋町長を務めた久保氏の祖父が整備したものだと分かりました。つまり明治初期のものであり、しかもきちんとした見識を持って整備されていたのです。この排水路はまた蓋をされて、生活通路としても使われていたのです。
次の画像の左側の側石には蓋をはめる切込みがあります。
そういえば私たちが小さいころはこうした排水溝の上が日常の通り道だったことを思い出します。
今はそれにコンクリートの蓋がされ、結果的に遺構が活きていることを知らない人々が途中から新築工事で埋めてしまうようになってしまいました。
こうしてまだ生活排水路として使われ、松板を見せているのは私の近所だけです。
2008_0217_042.jpg























なんとかこの排水路を文化遺産として活用できないものかと考えるのですが、うまく行きません。下水道が完備してしまうと排水が雨水だけになり、松板は枯れてしまいます。松板が保たれるのには常に水の中に浸かっていなければなりません。一度町政座談会の時にお話しし、会後に役場の方が見にこられましたがそれきりでした。
個人で水を流し続けるのは不可能です。
このままではいずれ忘れ去られてしまうでしょう。
目の前にある文化遺産が活かしきれない無念さ、です。

☆午後は仕事場へ戻ると冷たいつむじ風が吹き荒れはじめました。
工場の中へ場所を移して作業しました。
夕刻までにはほぼまとまりました。
仕上げは余り細かくすると肌が美しすぎるので、砥石の細めで止めました。
カッティング部は先日黒御影石の作品で試みたように目の細かいビシャンを当てたら落ち着きました。
2008_0217_052.jpg























2008_0217_053.jpg























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田中 等
性別:
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職業:
彫刻家
自己紹介:
宮崎県在住の彫刻家。
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