彫刻家・田中等の日々雑感・最新情報
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☆昨日の報告です。
石材店にお願いしてあった墓地の墓碑周りの工事が終了したので見に行ってきました。
既設の三基の墓も綺麗に洗い清められて設置してありました。
とても丁寧な仕事をしていただきました。
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☆墓地に行く道すがら、路傍に地蔵像があることに初めて気が付きました。
この鴫野地区には路傍の石仏がかなり点在して、いまでも手厚く祭られているようです。
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東児湯五町連絡協議会の特命石仏調査班の作成した「石仏ルートマップ」によれば、
この地蔵像は「正祐寺地蔵」で、毎年正月21日に正祐寺1班の皆さんで神職を呼んでお祭りをされているということです。
半跏踏下(はんかふみさげ)像の地蔵は町内では珍しいスタイルです。
頭部は後補で、高鍋大師の岩岡翁の手になるようです。
神職が地蔵を祭るというのですから、明治以前の神仏混合時代からの風習が続いていることになります。
建立時期等の刻字は風化が激しくて確認できませんでしたが、高鍋町教育委員会の「高鍋の野仏」には、宝暦3年(1753)7月吉日建立とあります。
約260年前の建立ということです。
ちなみに、2年前の宝暦1年に上杉鷹山が生まれ、翌宝暦2年に木城・比木神社の大鳥居が建立されています。
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☆昨日の墓碑の状態です。
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石材店にお願いしてあった墓地の墓碑周りの工事が終了したので見に行ってきました。
既設の三基の墓も綺麗に洗い清められて設置してありました。
とても丁寧な仕事をしていただきました。
☆墓地に行く道すがら、路傍に地蔵像があることに初めて気が付きました。
この鴫野地区には路傍の石仏がかなり点在して、いまでも手厚く祭られているようです。
東児湯五町連絡協議会の特命石仏調査班の作成した「石仏ルートマップ」によれば、
この地蔵像は「正祐寺地蔵」で、毎年正月21日に正祐寺1班の皆さんで神職を呼んでお祭りをされているということです。
半跏踏下(はんかふみさげ)像の地蔵は町内では珍しいスタイルです。
頭部は後補で、高鍋大師の岩岡翁の手になるようです。
神職が地蔵を祭るというのですから、明治以前の神仏混合時代からの風習が続いていることになります。
建立時期等の刻字は風化が激しくて確認できませんでしたが、高鍋町教育委員会の「高鍋の野仏」には、宝暦3年(1753)7月吉日建立とあります。
約260年前の建立ということです。
ちなみに、2年前の宝暦1年に上杉鷹山が生まれ、翌宝暦2年に木城・比木神社の大鳥居が建立されています。
☆昨日の墓碑の状態です。
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