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☆今日から高鍋町美術館で「北北西からの発信 福岡・長崎5人展」という展覧会が始まりました。
美術館長の教え子である濱本氏を中心にした現代アートの5人による展覧会です。
こうした現代アートが高鍋町美術館で開催されるのは初めてです。
先日までの増田常徳展とは違った角度でのインパクトのある展覧会です。
(デジカメの画像が悪くてすみません)
美術館の裏ブログ(学芸係長のブログ)に綺麗な画像がUPされています。
アートがあっと!
昨夜は作家たちを迎えての懇親会を開きました。
木城町の川原キャンプ場のコテージに3泊されるということで、コテージでホルモン鍋と焼肉で酒を酌み交わしました。
皆さんとは昨年の4月27日に美術館の下見に来られたときに一緒に飲んでいますので、気心の知れた酒宴となりました。
その昨年の酒宴の画像がブログにUPされていない、と近藤さんからお叱りを受けたので(私たちとの出会いをもっと熱烈に語ってくれなくちゃ!)、近藤さんは特別バージョンでUPさせていただきます。
岩崎議員のブログもどうぞ。
五人展
ペルーの北川太郎氏から、また遺跡の画像が届きました。
”皆様ゴールデンウイークを満喫されておられる事と存じます。
☆この連休は祝い事や法事で動きが取れません。それで今日は近場の未知の場所への日帰り小旅行をしました。
高鍋とは百済王の伝説でもっとも結びつきが近いのに、なんだか山越えの遠い山間部のように感じて行くことが無かった美郷町南郷区の百済の里へ出かけました。
ただ同伴した次男がこうした家族旅行には気乗りしない年頃なので、行って直ぐに帰ってくるだけの駆け足旅行となってしまいました。
出かけてみると以外に短時間で行けることがわかりました。
これを機にこれから足を運んでみようと思います。
何しろ百済王伝説は実に興味深い歴史ロマンにあふれていますので。
百済の館前ではサムルノリが舞われていました。
このグループは地元の青年たちのグループです。
このグループは大分立命館アジア太平洋大学の韓国留学生のグループです。
神門神社参道の狛犬。職業柄、こうしたものがとても気になります。
西の正倉院です。ボランティアの方が説明をしてくれています。白い部分が元の檜の白木の色で、黒い部分は時間とともに変色したものだと言うことです。
挙式は大御神社で行われました。
披露宴は米の山の中腹にあるホテル日向のレストランで行われました。
眼下に日向灘を一望できる素晴らしいロケーションです。
(第一回の日向現代彫刻展のオープニングパーティーもこのホテルでしたー前身の日向ハイツ時代ー)
海をバックにした祝宴はとても気持ちの好いものでした。
祝宴の2次会は同じホテルの海の見えるガーデンで行われました。
まるで韓流映画に出てくるようなロケーションです。
やはり日向市の財産はこの美しい海にあります。
姪は中高時代は吹奏楽部でパーカッションを担当し、社会人になってからはバンドでドラムを叩き、和太鼓のグループにも入っていました。
青い海原を背景に水色のウエディングドレス姿の花嫁が和太鼓を叩く様は圧巻でした。
これまで色んな結婚式に出席してきましたが、今日のこのロケーションでの披露宴は最も印象に残るものとなりました。
(携帯画像なので画像がクリアでありません。)
いつも作品の写真を撮る場所は、今日は車がいっぱいで車が止められませんでした。
潮が引いていて、多くの人たちが貝(ミナ)獲りをしています。
大潮なのかと思いましたが、暦を見ると月齢6,0の小潮でした。干潮が17時過ぎだったので、これからまだ潮が引くときだったようです。
春の長閑な海の匂いがたまらなかったですね。
高鍋の海岸は、こんな小石だらけで岩はありません。この小石に付く牡蠣が高鍋特有の小粒の絶品の味を育みます。
作品の画像です。
大きさは27h×34w×8dです。このくらいの大きさの"The door of the wind"が欲しかったのです。
☆今日は叔父・道北昭介の17回忌法要が円福寺で行われました。
この円福寺は浄土宗ですし、田中家は浄土真宗なので田中家は円福寺の檀家ではありません。
しかし4月16日のブログにも書きましたように、円福寺には四国八十八ヶ所の霊場があります。
この石像群は四国から移住してきた人たちによって祀られた霊場なのでしょう。
発起人の世話人の中に曽祖父の田中梅吉の名前があります。
画像にはありませんが山門近くにはこの霊場の由来書きの石柱があり、同じ発起人世話人の連名で明治31年に霊場を作ったとあります。
この石仏たちの中には梅吉の彫ったものもあるのでしょうか。
背面を覗いて見たのですが、彫り師の名前はありませんでした。
今、画像をよく見たら、「仏様奉納者名」の中に、祖父の道北政次郎の名前があります。
道北政次郎は道北から田中に婿養子に入り、今日の法要主の道北昭介の祖父の弟になります。
明治31年と言えば、後に道北政次郎の妻となる田中家の娘はまだ10歳くらいです。
こんな形にひな壇にまとめられたのは近年になってのことです。
左側の壁面には近年のこのひな壇工事の寄進者の名前が記されてあります。同じ陶板製ですので梅吉じいさんたちの寄進者名もこの時に新調されたものなのでしょう。
この円福寺は町内でもかなり古くからあるお寺(応永一年、1394年に開基)ですので(有名なカッパ石がある)、境内には古くからの石仏がたくさんあります。自分の仕事場の目の前のお寺の境内なのに、滅多に入ることなく、今日あらためて石像仏の多さに驚いた次第です。一度、機会を見てじっくり探訪してみようと思います。
☆昨夜は中町公民館の家族焼肉会を開きました。
例年は総会の日に花見を兼ねたりして開催してきたのですが、総会は総会でじっくり向き合いたいと言うことで、今年は総会とは別の日にあらためて開きました。
昨日は冷え込んで寒かったのですが、私たちはずっと火の回りに張り付いて、暖かく美味しいお酒を飲むことが出来ました。
やはりこうしたみんな揃っての和気藹々(あいあい)とした宴はとても楽しいものです。
こうしたまとまりのよさが中町公民館の強みです。
焼き物は肉だけではなく、牡蠣や筍など旬のものもたくさんありました。
私はお手の物の焼き牡蠣を担当しました。
馴れないとなかなかコツの要る作業なのです。
万歳三唱のときに久しぶりにくっきりとした「たまゆら」が。
それだけ楽しい宴でした。
こちらからも 青空未来通信記
☆昨日、空港展の後援申請のために宮崎市へ出かけたついでに、「陽だまり」の様子を見に立ち寄ってみました。ブロンズの変化の様子と、悪戯で顔に塗られていた着色剤がどのような感じで落ち着いているかを点検したかったのです。
そうしたら顔の部分がやけに変色しています。着色剤が浮いてきたのかと思いましたがどうやらそうではなく、設置状況上、座った人と対面できる位置にあるためやたら顔を触られてこすられ過ぎているのと、色んな食べ物を持った手で触られているらしく油分が付着しているためだとわかりました。左の眉の黒いしみは明らかに油成分です。でもこうした油分は風化されていくでしょう。
全体的な色の変化はとても落ち着いてきました。鋳造の悪さも目立たなくなってきました。
帰路にこれまでに通ったことも無い小路を抜けていたら、民家の石壁に祀られた石仏に気が付きました。
彫り味の良い素朴な観音(?)像でした。