彫刻家・田中等の日々雑感・最新情報
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☆昨日「ARIGATO PRANTL SAN」という写真集が届きました。
これは1959年に世界で初めての彫刻シンポジウムを開催されたカール・プランテル氏の85歳の誕生祝として、親交のある日本の彫刻家の皆さんが中心になってまとめられた日本人彫刻家のシンポジウム参加記録集です。
76名の作家(私を含め)のシンポジウム作品画像と、日本人が参加もしくはオルガナイズした彫刻シンポジウム一覧表が収録されています。
カール・プランテルさんと世界最初の彫刻シンポジウムについては以下のとおりです。
彫刻シンポジウムの発端
ハンガリー国境に近いブルゲンランドに在住のカール・プランテルは1958年ウイーンの南東に位置するザンクト・マルガレーテンのローマ採石場で作品「境界石」制作に取り組んでいた。その制作作業中、多くの芸術家たちが苦難状態にある時代に、彼の仕事現場の周囲にふんだんに存在する大型の石塊、石切場の職人たちの協力的な姿勢や運営者の寛容さなど、彼はここが理想的な制作環境を提供していることを発見したのである。プランテルの最初の構想はウイーンに住む精神医のフリードリッヒ・ツァガン及びウイーンの彫刻家ハインリッヒ・ドイチとの脇力のもとに具体化され、実現をみることになる。全ヨーロッパの、西欧と東欧を連合せんとする彫刻家の採石場での共同制作へのアイディアが開発され、その趣旨をマニフェストに謳いあげた。かくして1959年、周到な準備の末、最終的には11名の彫刻家が欧州8カ国(ベルギー、ドイツ、フランス、イタリア、オランダ、オーストリア、スイス、スロベニア)から集まり、12週間にわたってマルガレーテンの石灰砂岩採石場での制作活動に入った。出来上がった大型の石彫作品に関しては、その石切場を展示会場として一般公開されたあと、従来の慣例であった画廊や美術館を通して芸術作品を売買するという束縛からは脱して、あちこちから一ヶ所に集合して制作したのとは逆方向に、つまり参加者の国々に夫々作品の買い手あるいは公の空間に展示される場を見出そうという構想であった。中には何年か経過するうちに欧州内外に展示の場を得た作品が何点かあるとはいえ、構想のこの部分に関しては期待ほどの実現は見られなかった。石切場に彫刻家が集まり、一緒に仕事をするという、その当時にはセンセーショナルなイベントは報道関係にも強い反響と関心を呼んだ。民族間の友好、結びつきへの強力な推進力であることを強調して報道し、ことに彫刻家たちが通常の孤立した仕事場ではなく、意見やアイディアを交換しながら特定の期間一所に集まって制作すること、また一般人の立ち入りも可能であるその仕事場環境に言及した。さらにまた当時芸術作品の展示会場として極めて特異な舞台状況一採石場と風摩な景槻がかもし出す特殊な雰囲気一に大いに関心をしめした。この劇的な第一回目のシンポジウムのあと、ザンクト・マルガレーテンでは1974年までの間、彫刻家シンポジウムは殆ど毎年開催された。
「彫刻家シンポジュウム --その発端--展開--変遷」
ユタ・ヴォルトマン 2004年
このカタログは1500円(送料込み)というほぼ実費の廉価で販売されます。
貴重なシンポジウム資料です。
次のHPから注文できるようです。
http://ishikaraishie.sakura.ne.jp/index.html
これは1959年に世界で初めての彫刻シンポジウムを開催されたカール・プランテル氏の85歳の誕生祝として、親交のある日本の彫刻家の皆さんが中心になってまとめられた日本人彫刻家のシンポジウム参加記録集です。
76名の作家(私を含め)のシンポジウム作品画像と、日本人が参加もしくはオルガナイズした彫刻シンポジウム一覧表が収録されています。
カール・プランテルさんと世界最初の彫刻シンポジウムについては以下のとおりです。
彫刻シンポジウムの発端
ハンガリー国境に近いブルゲンランドに在住のカール・プランテルは1958年ウイーンの南東に位置するザンクト・マルガレーテンのローマ採石場で作品「境界石」制作に取り組んでいた。その制作作業中、多くの芸術家たちが苦難状態にある時代に、彼の仕事現場の周囲にふんだんに存在する大型の石塊、石切場の職人たちの協力的な姿勢や運営者の寛容さなど、彼はここが理想的な制作環境を提供していることを発見したのである。プランテルの最初の構想はウイーンに住む精神医のフリードリッヒ・ツァガン及びウイーンの彫刻家ハインリッヒ・ドイチとの脇力のもとに具体化され、実現をみることになる。全ヨーロッパの、西欧と東欧を連合せんとする彫刻家の採石場での共同制作へのアイディアが開発され、その趣旨をマニフェストに謳いあげた。かくして1959年、周到な準備の末、最終的には11名の彫刻家が欧州8カ国(ベルギー、ドイツ、フランス、イタリア、オランダ、オーストリア、スイス、スロベニア)から集まり、12週間にわたってマルガレーテンの石灰砂岩採石場での制作活動に入った。出来上がった大型の石彫作品に関しては、その石切場を展示会場として一般公開されたあと、従来の慣例であった画廊や美術館を通して芸術作品を売買するという束縛からは脱して、あちこちから一ヶ所に集合して制作したのとは逆方向に、つまり参加者の国々に夫々作品の買い手あるいは公の空間に展示される場を見出そうという構想であった。中には何年か経過するうちに欧州内外に展示の場を得た作品が何点かあるとはいえ、構想のこの部分に関しては期待ほどの実現は見られなかった。石切場に彫刻家が集まり、一緒に仕事をするという、その当時にはセンセーショナルなイベントは報道関係にも強い反響と関心を呼んだ。民族間の友好、結びつきへの強力な推進力であることを強調して報道し、ことに彫刻家たちが通常の孤立した仕事場ではなく、意見やアイディアを交換しながら特定の期間一所に集まって制作すること、また一般人の立ち入りも可能であるその仕事場環境に言及した。さらにまた当時芸術作品の展示会場として極めて特異な舞台状況一採石場と風摩な景槻がかもし出す特殊な雰囲気一に大いに関心をしめした。この劇的な第一回目のシンポジウムのあと、ザンクト・マルガレーテンでは1974年までの間、彫刻家シンポジウムは殆ど毎年開催された。
「彫刻家シンポジュウム --その発端--展開--変遷」
ユタ・ヴォルトマン 2004年
このカタログは1500円(送料込み)というほぼ実費の廉価で販売されます。
貴重なシンポジウム資料です。
次のHPから注文できるようです。
http://ishikaraishie.sakura.ne.jp/index.html
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