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ホワイトホースの気温はなんと通常で-20℃ということです。
防寒靴も名寄で使っているものは役に立たず、耐寒-60℃の現地調達のものでないと使えないということ。
雪質も、乾燥しすぎてもろく、とても作りにくかったということ。
それでもこれを機に、日本の彫刻家チーム”宮崎チーム”は日本代表としてこれから世界中の雪像大会へ乗り込んでいく気持ちを高めたということです。
オーロラも見えたようです。
実際にはこの画像よりももっと綺麗に見えたということです。
☆尾崎慎氏のデジブックからはもっと詳しい報告が見れます。
体感温度-39℃
石像の蔦も綺麗に取り除かれ、生い茂った雑木も伐採されて古墳の形もすっきりと見れるようになって来ました。
石像の背後にあるなだらかな低い小山はすべて古墳です。
☆下の道路から登って来る参道も両脇の雑木を払うと、八十八箇所巡りの石像が現れてきました。
私たちが小さいころは、自転車で下の登り口まで来て、急な階段を登ったものですが、両脇にこんなに石仏が並んでいたのは気がつきませんでした。気がついていても、少年時代には何の興味も無かっただけなのかもしれませんが。
会頭が道案内してくれました。
会頭たちはわざわざこの階段を登ってきたのだということです。
登って行くとぬっとそびえる石像が出迎えてくれます。
☆ところで気になるのは、先日石像の横に写り込んだ”何か”です。(8月26日 高鍋大師1)
美しいブルーの”何か”が写っていたのはこの部分ですが、やはり何もありません。
ただ、足元を見ると頭部の小さな観音頭部や腕がいくつか落下していました。
ひょっとすると、元に戻してくれ、ということだったのだろうか。
私の持参した不思議な画像を見ながら、みんなでそんな話をしたところでした。
☆高鍋大師の面白石像のいくつかです。
これは大分の石工たちと小丸川の河原で石を刻んでいたときの様子です。
中央が岩岡翁でしょう。
岩岡翁は個人の肖像もかなり彫っています。
これは木城村の村長だった津江市作氏の101歳の長寿を記念した肖像です。
私は津江市作氏には個人的な思い出があります。
津江市作氏が亡くなった当時はまだ土葬が主でした。
あるとき、墓碑を立てる仕事を手伝っていたとき、天秤棒で墓石を担いでいた私の周囲の景色が急に上昇しました。
私は墓石の重みで墓穴に落ち込んでしまったのです。
その墓穴は津江市作氏のものでした。
私が落ちた衝撃で骨壷の蓋が割れました。
そこには真新しい津江市作氏の遺骨がありました。
つまり、私は津江市作氏の埋葬後に津江氏の遺骨に触れるという稀な経験をしたのでした。
岩岡翁の最高傑作、”スサノオノミコト”
このど迫力!
この可愛らしさ!
この石像は先年の大雨で屋根が陥没するまで、本堂の屋根の真ん中に鬼瓦として載っていたものです。
大きな立像の背面にもこんなにたくさんの仁王像が彫られています。
これも今回の新発見でした。
まるでインドや東南アジアの遺跡のようです。
このほかにも面白い石像がたくさんあります。
岩岡翁の彫った石像は700体とも750体ともいわれます。
町内の辻角や墓地にも岩岡翁の石像は見られます。
こんなド素人の石像がどうしてこんなにも人々の心を惹きつけるのでしょうか。
本当に見ていてまったく飽きないし、圧倒されてしまうのです。
保存という視点で見ると、この粗造りの石像は実に危なっかしいものです。
問題点、面白石像等を何回かに分けて掲載します。
昨日はとてもよい天気で、見晴らしが最高でした。
石像はこんな具合に組み立てられています。
臍を作って差込み、セメントで固めただけです。
今にも落ちてきそうで、針金で固定してあったり、実際に落ちている部分もあります。
しかも支えてある鉄の支柱は背後の古墳に突き刺さっています。
顔も各部分がセメントで貼りつけてあります。
この観音像は頭部が今にも落ちてきそうです。
横から見ると怖いものがあります。
この支柱も背後の古墳に突き刺さっています。
これらの手はすべて差し込んでセメントで固定してあるだけです。
この編集作業をしていて、あることに気がつきました。
最後から2番目の観音像の横姿の暗がりの下部に、何か青いものが光っています。
ナンダロウ?と部分拡大してみると・・・・・
なんだか美しい青い朝顔の花が咲いているようではありませんか。
何かが写りこんだようです。
☆今日は日向市のかぼちゃ会主催の第22回砂の造形大会の審査に行ってきました。
私が審査委員長、奥村羊一が副委員長のコンビで長年携わってきています。
会場は数年前から伊勢が浜に移りました。
天気予報では雨模様でしたが、幸い開催中は雨には至らず、風は強かったですが絶好のコンディションの中で開催されました。
そして今年は、なんと参加者が1100名を越えました。
小さいころに参加した方たちが、今では自分の子供を連れて参加するだけの歴史の流れを作ってきている砂の造形大会です。
かぼちゃ会の方たちの日向市への思いに打たれます。
豪華景品が並びます。
黒木・日向市長の挨拶です。
奥村によるルール説明です。今日は風が強いので、こまめな水掛が必要なことなど、親子仲良く作業することなどを説明します。
個人チームの部と団体チームの部に分かれて競技開始です。
団体で優勝した小学校のチームの作品です。
個人チームで優勝した家族です。これで3年連続の優勝、自転車景品の獲得です。
毎回、おじいさんから孫まで一緒になって徹底的に論議してプランを練ってくるのだそうです。
砂の造形大会は日向市の多くの市民の家族、仲間たちの結束を強めてくれているのです。
☆一昨日の14日土曜日は名寄を出て旭川へ向かいましたが、時間があったので、旭川から美唄に向かうという松村氏と同行して美唄のアルテピアッツア美唄を訪ねました。
アルテピアッツア美唄は美唄出身の彫刻家・安田侃氏の作品が廃校小学校の再利用で個人美術館として配置されているあまりにも有名な場所です。
これまでは時間が取れなくて行くことが出来ませんでした。
多くの屋外作品は雪に埋もれて見ることは出来ませんが、今回行かなければそう滅多に機会は訪れないと思いました。
旭川から特急で美唄駅で降り、1時間に1本しかないバスでアルテピアッツア美唄へ向かいました。
この日は天候が荒れて朝から大雪でしたが、美唄は霙から雨になっていました。
駅には大きな荷物を預けるところが無く、道具類の入った荷物を抱えて雨で雪が溶けてびちょびちょになった道を歩いて廃校の事務所へたどり着きました。
アルテピアッツア美唄はNPO法人のアルテピアッツアびばいが運営をされていて、入場料は無料でした。
小学校跡のギャラリーです。
屋外の作品は、ブロンズ以外は凍結防止のためにカバーがかけてあって見ることは出来ませんでした。
この白い玉はたまゆらではありません。霙を上向きになって撮るとこうなってしまいます。
こちらは体育館のアートスペースです。
カフェーでだご汁定食でお昼を摂りました。
カフェーの下はスタジオになっていて、一般の人が大理石の彫刻教室を受講できるようになっています。
道具はすべて安田侃氏が発注している職人手作りのもので、こうした道具が高くてなかなか手に入らない私にとっては夢のようなスタジオでした。
机も安田氏が使っているものと同じスタイルだということですし、さらに驚くことに安田侃氏自身が年に何回かは帰郷されて直接指導されることがあるのだそうです。
なんともなんともため息の出るような話ではありませんか!
☆札幌へ向かう松村氏と別れて、私は旭川へ戻りました。
この夜は名寄の審査をされている東海大学の荒井先生宅にお世話になることになっていました。
旭川へ戻ると、旭川も雨で駅前の道路は水溜りだらけでびちょびちょでした。
迎えにこられた荒井先生は、この時期に雨が降るなんて初めてのことだと嘆いておられました。
夕食までの間に旭川美術館や旭川彫刻フェスタと関係されているギャラリーなどを案内していただきました。
旭川美術館では旭川在住の一ノ戸ヨシノリ氏の回顧展が開かれていて、トリッキーな仕掛けがある面白い展覧会でした。
その隣ではマルをテーマにした企画展が開かれていて、その一つの作品に、洞爺湖サミットで使われた円卓が展示されてあり、誰でも座って記念撮影できるようになっていました。
この円卓は旭川の”北の住まい設計社”が制作したものだそうです。
私は日本の首相席に座って携帯でぱちりと撮ってもらいました。