彫刻家・田中等の日々雑感・最新情報
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☆午前に所用があり、隣町の川南町の十文字までスクーターで走りました。
空気は冷え込んでいましたが、雨上がりの上天気で気持ちの好い走行でした。
帰路に国史跡”宗麟原供養塔”の案内が目に入りましたので、案内に従って川南古墳群の畑地の中を走って行くと、雑木林の中に突然開けた広場に出ました。
歴史に詳しい方ならご存知のように、この供養塔は九州の関が原と言われる高城(現在の木城町)の戦いの、大友と島津による第一次高城合戦(高城川の戦い)での双方のおびただしい戦死者たちの霊を供養するために、島津義久の命で武智勇すぐれた高城城主・山田新助有信の建立したものです。
この戦いで双方の戦死者は数知れず、特に勝ちに乗じて川に突っ込んだ大友軍は島津軍に追い込まれて”ダケキガ淵”の深みにはまり、さしもの深淵も戦死者で浅瀬となり、淵は血で紅に彩られ、その後敗走する大友の兵の屍は累々と美々津川まで続いたと言われます。
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この供養塔は天正13年(1585年)に清武石で作られていますが、明治の廃仏毀釈で傍らの地蔵谷に遺棄され意識的に破壊されたそうです。その後、大正時代になって地域の住民たちが復元したもので、そのために一部は別の部材が借用されているようです。
供養塔には六地蔵が刻まれています。
私は何度か写真では見てはいましたが、実際に宗麟原に来たのは初めてです。
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台地を下るとふもとの切原川のたもとに第一次高城合戦(高城川合戦)古戦場跡の案内板が立っていました。
川向こうが大友の本陣だったようです。供養塔はその背後の台地の上にあります。
建立時には見晴らしがよく、合戦の舞台が一望できたようです。
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この当たり一体が第一次高城合戦の戦場だったようです。
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実は私は高城合戦について、最近までまったく何も知りませんでした。
合戦があったことは知っていましたが、歴史に疎い私は何処にでもあった合戦の舞台が高城にあったのだろう、くらいの認識でした。
ところが知人に頂いた山内正徳先生(私が高鍋高校在学中の恩師)の「高城戦記」(鉱脈社・2008年出版)を読んで、その凄まじさにびっくりしてしまったのです。
第一次とあるからには第二次がある訳で、第二次高城合戦は根白坂を舞台とした島津と秀吉の戦いで、まさに九州の関が原と言われる壮烈な戦いが繰り広げられています。
大友宗麟に援助を乞われた秀吉は、天正15年に異父弟の秀長を高城に差し向けます。その秀長軍の威容たるや凄まじい布陣で、毛利輝元、小早川隆景といった錚々たる武将を配し、兵力も10万という規模です。
しかしその兵力を持ってしても山田新助有信の指揮する高城はなかなか落ちません。
そこへ高城からの援護要請で駆けつけた兵2万の島津軍が、秀長軍の守る根白坂の営を夜に急襲した、有名な根白坂の夜襲が起きます。
しかしその秀長軍にはあの武将・藤堂高虎もいて、彼は昼寝て夜眠らず夜襲に備えていて、夜襲をいち早く察知し陣中に就き、夜を徹して島津軍と戦います。夜が明けて小早川等の隊も加わり、島津軍は大敗を喫します。
結局、この根白坂の夜襲戦での勝利によって、秀吉の九州制覇が成し遂げられるのです。
あの小さな高城で10万を越す軍が、しかも歴史上に名高い戦国武将たちを配した戦いがあったなんて、驚愕以外の何物でもありませんでした。
そしてこの事実を一部の歴史愛好家以外の高鍋町民、木城町民は殆ど知りません。
多分、学校教育では私たちは足元の歴史を教えてもらっていません。
今でこそ文教と歴史の町・高鍋と言っていますが、実際は戦国時代までの高鍋は湿地帯で、日向の街道は都農から高城を通り妻へ抜けていたのです。
高鍋が城下町として整備されるのは秋月藩になってからの後のことのようです。
江戸時代以前までのこの地域の城下町は高城だったのです。
☆凄惨な地獄淵となった”ダケキガ淵”というのはどの辺りだろうと思いながら走っていると竹鳩(だけく)公民館に出ました。
そこには高速道路の真下に整備された”竹鳩池”というものがありました。
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”ダケキガ淵”というのは”竹鳩(だけく)が淵”と書くのだと思います。
「高城戦記」に載っている山内先生作図の地図には”竹鳩池”も”ダケキガ池”と表記してあるからで、”竹鳩池”は川の蛇行した後の池ですが、”竹鳩淵”は切原川と小丸川(今と流れが違う)の合流した底のえぐられた深い淵だったようです。
つまりこの”竹鳩池”よりも高城(木城町)寄りに”竹鳩淵”は在って、現在では開拓されてしまってその所在は分かりにくくなったようです。
☆竹鳩公民館に大師堂がありました。
お大師さんの顔はほかにも見覚えがあります。同じ人が彫った石仏がこの近辺には散在しているのでしょう。
教育委員会の資料では建立年は不明です。
昭和初期なのかな?(背後の布に書いてあるので)
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空気は冷え込んでいましたが、雨上がりの上天気で気持ちの好い走行でした。
帰路に国史跡”宗麟原供養塔”の案内が目に入りましたので、案内に従って川南古墳群の畑地の中を走って行くと、雑木林の中に突然開けた広場に出ました。
歴史に詳しい方ならご存知のように、この供養塔は九州の関が原と言われる高城(現在の木城町)の戦いの、大友と島津による第一次高城合戦(高城川の戦い)での双方のおびただしい戦死者たちの霊を供養するために、島津義久の命で武智勇すぐれた高城城主・山田新助有信の建立したものです。
この戦いで双方の戦死者は数知れず、特に勝ちに乗じて川に突っ込んだ大友軍は島津軍に追い込まれて”ダケキガ淵”の深みにはまり、さしもの深淵も戦死者で浅瀬となり、淵は血で紅に彩られ、その後敗走する大友の兵の屍は累々と美々津川まで続いたと言われます。
この供養塔は天正13年(1585年)に清武石で作られていますが、明治の廃仏毀釈で傍らの地蔵谷に遺棄され意識的に破壊されたそうです。その後、大正時代になって地域の住民たちが復元したもので、そのために一部は別の部材が借用されているようです。
供養塔には六地蔵が刻まれています。
私は何度か写真では見てはいましたが、実際に宗麟原に来たのは初めてです。
台地を下るとふもとの切原川のたもとに第一次高城合戦(高城川合戦)古戦場跡の案内板が立っていました。
川向こうが大友の本陣だったようです。供養塔はその背後の台地の上にあります。
建立時には見晴らしがよく、合戦の舞台が一望できたようです。
この当たり一体が第一次高城合戦の戦場だったようです。
実は私は高城合戦について、最近までまったく何も知りませんでした。
合戦があったことは知っていましたが、歴史に疎い私は何処にでもあった合戦の舞台が高城にあったのだろう、くらいの認識でした。
ところが知人に頂いた山内正徳先生(私が高鍋高校在学中の恩師)の「高城戦記」(鉱脈社・2008年出版)を読んで、その凄まじさにびっくりしてしまったのです。
第一次とあるからには第二次がある訳で、第二次高城合戦は根白坂を舞台とした島津と秀吉の戦いで、まさに九州の関が原と言われる壮烈な戦いが繰り広げられています。
大友宗麟に援助を乞われた秀吉は、天正15年に異父弟の秀長を高城に差し向けます。その秀長軍の威容たるや凄まじい布陣で、毛利輝元、小早川隆景といった錚々たる武将を配し、兵力も10万という規模です。
しかしその兵力を持ってしても山田新助有信の指揮する高城はなかなか落ちません。
そこへ高城からの援護要請で駆けつけた兵2万の島津軍が、秀長軍の守る根白坂の営を夜に急襲した、有名な根白坂の夜襲が起きます。
しかしその秀長軍にはあの武将・藤堂高虎もいて、彼は昼寝て夜眠らず夜襲に備えていて、夜襲をいち早く察知し陣中に就き、夜を徹して島津軍と戦います。夜が明けて小早川等の隊も加わり、島津軍は大敗を喫します。
結局、この根白坂の夜襲戦での勝利によって、秀吉の九州制覇が成し遂げられるのです。
あの小さな高城で10万を越す軍が、しかも歴史上に名高い戦国武将たちを配した戦いがあったなんて、驚愕以外の何物でもありませんでした。
そしてこの事実を一部の歴史愛好家以外の高鍋町民、木城町民は殆ど知りません。
多分、学校教育では私たちは足元の歴史を教えてもらっていません。
今でこそ文教と歴史の町・高鍋と言っていますが、実際は戦国時代までの高鍋は湿地帯で、日向の街道は都農から高城を通り妻へ抜けていたのです。
高鍋が城下町として整備されるのは秋月藩になってからの後のことのようです。
江戸時代以前までのこの地域の城下町は高城だったのです。
☆凄惨な地獄淵となった”ダケキガ淵”というのはどの辺りだろうと思いながら走っていると竹鳩(だけく)公民館に出ました。
そこには高速道路の真下に整備された”竹鳩池”というものがありました。
”ダケキガ淵”というのは”竹鳩(だけく)が淵”と書くのだと思います。
「高城戦記」に載っている山内先生作図の地図には”竹鳩池”も”ダケキガ池”と表記してあるからで、”竹鳩池”は川の蛇行した後の池ですが、”竹鳩淵”は切原川と小丸川(今と流れが違う)の合流した底のえぐられた深い淵だったようです。
つまりこの”竹鳩池”よりも高城(木城町)寄りに”竹鳩淵”は在って、現在では開拓されてしまってその所在は分かりにくくなったようです。
☆竹鳩公民館に大師堂がありました。
お大師さんの顔はほかにも見覚えがあります。同じ人が彫った石仏がこの近辺には散在しているのでしょう。
教育委員会の資料では建立年は不明です。
昭和初期なのかな?(背後の布に書いてあるので)
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