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☆昨夜は高鍋町自治公民館長の研修会(「振り込め詐欺」等について)が行われ、会後に懇親会が催されました。
懇親会では隣の席が高鍋町史友会会長の飛田先生でした。
先日のブログに載せた日高耳水と山内仙介の墓のことなどお尋ねしてみました。
こうした先人の墓は町内の各所の墓地に多くあるわけですが、多くは、飛田先生が高鍋に帰ってこられるまでは墓を守る子孫も高鍋には居ず、荒れ放題だったそうです。
平成18年に建てた標柱も古くなって朽ちていたのを新しくされたのだそうです。
少ない史友会の会費と役場からの補助でやりくりしているのでなかなか大変だと言うことでした。
アトラクションで隣町の木城町から、福智王伝説を歌と踊りで表現したものを披露にこられました。
こうした歴史を積極的に今に活かしていこうという姿勢はとても評価しますが、いくつか気になることがありました。
と言うのは、初めに「田の神(かん)さあ」という歌と踊りを披露されたのですが、石像としての「田の神さあ」は旧島津藩であった西諸、北諸、東諸の諸県地方でしか祀られていません。「田の神さあ」という言い方自体が諸県弁だ、と飛田先生は言われます。(東国原知事がドゲンカセントイカンと言うのを宮崎弁だというのが、そうではなく諸県弁だといつかこのブログに書いたのと同じです。)
つまりこの児湯郡にはいわゆる「田の神さあ」は存在しないのです。
ただ歌っているのはどうも吉幾三で歌詞も東北地方の内容です。宮崎の諸県地方の「田の神さあ」とは関係ないようです。
私たちは「田の神さあ」と言えばあの諸県地方の独特な石像を思い浮かべてしまいます。
こういう混乱はどうなのでしょうか。
(しかしネットで調べてみると「田の神さあ」という表現をするのはやはり旧島津藩領だけです。)
それに福智王の百済伝説も、この創作歌詞にも書かれ一般にも流布している”戦いに敗れて追われて逃げてきた百済の王族が嵐で難破して高鍋に流れ着いた”という伝説の”戦いに敗れて追われて逃げてきた”というくだりは史実とは違うのだ、と飛田先生は指摘されます。
一度きちんとした史実を確認したほうが良いかもしれません。