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彫刻家・田中等の日々雑感・最新情報
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☆昨日は火産霊神社夏祭りの初日でした。心配された雨も時折りぱらつく程度で、とても涼しい祭の一日となりました。

神事を終え、巡行前の境内です。
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巡行が始まりました。
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陽も落ちて多くの人々が繰り出してきました。
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そしていよいよクライマックスの大四つ角での太鼓台と神輿の激突が始まりました。
何人か負傷者も出たようです。
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次男も鼓手で太鼓台に乗り、思い切りエネルギーを燃焼させたようです。
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さて今日は2日目。先ほどから雷が鳴り小雨が降っていますが、雲は厚くないので、午後の巡行までには天候は回復しそうです。
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☆今日の午前は来週の火産霊神社夏祭りの準備でした。

神輿の組み上げです。
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太鼓台の組み上げです。今年は柱や欄干が新しくなりました。
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太鼓台の担ぎ棒は乾燥していると折れるので、祭の前に用水路に漬けておきます。
その間に青ノリが張ったりヘドロにまみれたりするので、それらを綺麗に洗い落とします。
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こちらは子供神輿の組み上げです。
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こちらは太鼓台の鼓手の練習です。子供が多い時代は小学5年生以上の運動能力の高い選ばれた子供しか鼓手にはなれませんでした。いわば祭の花形スターです。ですから私たちの年代では鼓手の経験のある人はほんのわずかです。しかし今は子供が少ないので、希望者は誰でも乗れます。こんな小学低学年の子供でも乗せてしまいますから、昔のような元気の良い覇気はありません。
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☆今年の火産霊(ほむすび)神社夏祭りのポスターが昨日届きました。
祭はもう1週間後です。ずいぶんのんびりしています。

図柄では太鼓台2台が戦っているように見えますが、コラージュで構成してあるので、実際は火産霊神社には太鼓台は1台しかありません。
しかし以前は祭日が重なる立花神社の太鼓台とのせめぎ合いが夏祭りのハイライトでした。
近年は立花神社の奉賛会には若者が居なくなり、地区外からの若者を調達して担がせるようになったので、傍若無人な若者たちを統率できず、火産霊神社の太鼓台とのせめぎ合いが警察沙汰になることが多くなり、今では2台の太鼓台のバトルはなくなりました。
全国的にこうした若者のルール無視の暴走で、伝統的な祭組織が崩壊して行ってるのは悲しいことです。
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☆今日は叔父・道北昭介の17回忌法要が円福寺で行われました。
この円福寺は浄土宗ですし、田中家は浄土真宗なので田中家は円福寺の檀家ではありません。
しかし4月16日のブログにも書きましたように、円福寺には四国八十八ヶ所の霊場があります。
この石像群は四国から移住してきた人たちによって祀られた霊場なのでしょう。
発起人の世話人の中に曽祖父の田中梅吉の名前があります。
画像にはありませんが山門近くにはこの霊場の由来書きの石柱があり、同じ発起人世話人の連名で明治31年に霊場を作ったとあります。
この石仏たちの中には梅吉の彫ったものもあるのでしょうか。
背面を覗いて見たのですが、彫り師の名前はありませんでした。
今、画像をよく見たら、「仏様奉納者名」の中に、祖父の道北政次郎の名前があります。
道北政次郎は道北から田中に婿養子に入り、今日の法要主の道北昭介の祖父の弟になります。
明治31年と言えば、後に道北政次郎の妻となる田中家の娘はまだ10歳くらいです。
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こんな形にひな壇にまとめられたのは近年になってのことです。
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左側の壁面には近年のこのひな壇工事の寄進者の名前が記されてあります。同じ陶板製ですので梅吉じいさんたちの寄進者名もこの時に新調されたものなのでしょう。
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この円福寺は町内でもかなり古くからあるお寺(応永一年、1394年に開基)ですので(有名なカッパ石がある)、境内には古くからの石仏がたくさんあります。自分の仕事場の目の前のお寺の境内なのに、滅多に入ることなく、今日あらためて石像仏の多さに驚いた次第です。一度、機会を見てじっくり探訪してみようと思います。

☆昨夜は中町公民館の家族焼肉会を開きました。
例年は総会の日に花見を兼ねたりして開催してきたのですが、総会は総会でじっくり向き合いたいと言うことで、今年は総会とは別の日にあらためて開きました。
昨日は冷え込んで寒かったのですが、私たちはずっと火の回りに張り付いて、暖かく美味しいお酒を飲むことが出来ました。
やはりこうしたみんな揃っての和気藹々(あいあい)とした宴はとても楽しいものです。
こうしたまとまりのよさが中町公民館の強みです。
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焼き物は肉だけではなく、牡蠣や筍など旬のものもたくさんありました。
私はお手の物の焼き牡蠣を担当しました。
馴れないとなかなかコツの要る作業なのです。
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万歳三唱のときに久しぶりにくっきりとした「たまゆら」が。
それだけ楽しい宴でした。
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こちらからも 青空未来通信記

☆明日から3日間、延岡大師祭が始まります。
私の仕事場の向いの円福寺も先日から「四国八十八箇所霊場」の幟が立っています。
私が小さいころはこの右の山手の中腹に日当たりの好い小さな大師祠があって、今の時期の「おだいしさん」祭りのときはそこへ登っては、お接待のおにぎりなどいただいていました。美味しかった散らし寿司のおにぎりの味は今でも記憶にあります。その後、何回かこの山腹はがけ崩れにあい、いまでは鬱蒼と木々の茂ったままになり、昔の面影はありません。
この円福寺は四国出身の人たちのよりどころであったようです。
赤い幟の寄進者の名前をみると、やはり先祖が明治時代に四国から移住してきた方たちのようです。
先日の高鍋大師の未来を語るシンポジウムの中で、町民が集まる「大師祭り」を開催したら、という意見がありました。昔はこの円福寺と、町中の下月火(あこづき)川の袂の小さな大師堂と高鍋大師で「おだいっさん」のお接待があって私たちはそれらを巡っていましたので,高鍋大師での「大師祭り」は復興ということになります。
緑の瑞々しい今の時期が「大師祭り」だったのですね。
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☆昨日は中町公民館の庚申講でした。以前は初庚申の日に行われていたようですが、今は講宿の都合に合わせて設定しています。

まず火産霊神社境内にある庚申塚にお参りをします。
どれが中町のものかわかりません。いずれも江戸時代のものです。
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次に講宿へ移って庚申宵です。
講宿は順次持ち回りで廻りますが、今年は「たかなべギョーザ」の息子さんが昨秋に結婚して新居を建てたのでその新居披露を兼ねて、順を飛ばして「たかなべギョーザ」の武末さんが講宿となりました。
私の作った庚申碑にお神酒を注いでみんなで回し飲みをするのが中町流儀です。
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いつもは講宿で”刺身”、”酢の物”、”煮豆”の3点セットを食し、その後2次会へ座を移して本格的に呑むのですが、今回は新居披露も兼ねていますので講宿でゆっくり腰を据えて宴を持ちました。
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私は黒木本店の”喜六”冬季限定が効き過ぎて終盤は前後不覚になってしまいました。
おかげで今日は宿酔。
宿酔で手磨き作業をするのはつらいですね。

高鍋町内でもこうして庚申講が残っているのは中町公民館くらいのようです。

☆関連ブログ 青空未来通信記 庚申塚

岩崎議員も今日は宿酔だったようです。
このブログには火産霊神社の庚申塚の奇妙な写真が載っています。
手ぶれ、ということですが庚申塚はちゃんと写っています。手ぶれだったら塚もぶれるはずです。
私の昨夜の新居での画像にも”たまゆら”みたいなものが結構写っていました。新居披露のめでたい気が満ちている場所ですから”たまゆら”が写ってもおかしくないでしょうが、名寄で雪や吐く息でのフラッシュの反射画像が”たまゆら”と区別がつかなかったので、私みたいなど素人にはどれが本当のたまゆらなのか区別がつかないと悟りました。ので、昨夜の画像の丸い玉の写りこみは無視することにしました。
しかしこの岩崎議員の画像は不思議なものだなあ・・・
☆今日の午前に中町公民館のお仙稲荷神社の春季例祭を行いました。
朝のうちは雨でしたが、祭礼のころには雨も止み、杜で直会も出来ました。
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お仙稲荷のお社はこんな小さな杜にあります。
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夜は公民館での直会の宴でした。

☆昨夜は高鍋町自治公民館長の研修会(「振り込め詐欺」等について)が行われ、会後に懇親会が催されました。
懇親会では隣の席が高鍋町史友会会長の飛田先生でした。
先日のブログに載せた日高耳水と山内仙介の墓のことなどお尋ねしてみました。
こうした先人の墓は町内の各所の墓地に多くあるわけですが、多くは、飛田先生が高鍋に帰ってこられるまでは墓を守る子孫も高鍋には居ず、荒れ放題だったそうです。
平成18年に建てた標柱も古くなって朽ちていたのを新しくされたのだそうです。
少ない史友会の会費と役場からの補助でやりくりしているのでなかなか大変だと言うことでした。
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アトラクションで隣町の木城町から、福智王伝説を歌と踊りで表現したものを披露にこられました。
こうした歴史を積極的に今に活かしていこうという姿勢はとても評価しますが、いくつか気になることがありました。
と言うのは、初めに「田の神(かん)さあ」という歌と踊りを披露されたのですが、石像としての「田の神さあ」は旧島津藩であった西諸、北諸、東諸の諸県地方でしか祀られていません。「田の神さあ」という言い方自体が諸県弁だ、と飛田先生は言われます。(東国原知事がドゲンカセントイカンと言うのを宮崎弁だというのが、そうではなく諸県弁だといつかこのブログに書いたのと同じです。)
つまりこの児湯郡にはいわゆる「田の神さあ」は存在しないのです。
ただ歌っているのはどうも吉幾三で歌詞も東北地方の内容です。宮崎の諸県地方の「田の神さあ」とは関係ないようです。
私たちは「田の神さあ」と言えばあの諸県地方の独特な石像を思い浮かべてしまいます。
こういう混乱はどうなのでしょうか。
(しかしネットで調べてみると「田の神さあ」という表現をするのはやはり旧島津藩領だけです。)

それに福智王の百済伝説も、この創作歌詞にも書かれ一般にも流布している”戦いに敗れて追われて逃げてきた百済の王族が嵐で難破して高鍋に流れ着いた”という伝説の”戦いに敗れて追われて逃げてきた”というくだりは史実とは違うのだ、と飛田先生は指摘されます。
一度きちんとした史実を確認したほうが良いかもしれません。
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☆今日の午前は火産霊(ほむすび)神社の秋の例祭でした。
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社務所から古い額絵が保管されているのが出てきました。
おそらくこの神社を建立か改築するときに寄進した人たちの額絵で、神社内の壁にずっと飾ってあった記憶があります。近年、雨漏りがひどくなり、それで絵が損なわれないように保管されたのでしょう。
百人一首の額絵になっています。
いつのころのものでしょうか?
みんなで額に彫られた寄進者の名前を見ていくと祖父、曽祖父のころの名前だとわかりました。
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私の曽祖父・田中梅吉の額絵も在りました。
絵柄には清原元輔の"契りなきかたみに袖を・・・”が選ばれています。
梅吉は明治18年ころに四国(香川県大川郡三本松)から高鍋へ来て居ます。
額には高鍋町と彫られています。
高鍋町の町制が施行されたのが明治34年(1901)ですから、したがってこれらの寄進はそれ以降のものとなります。
手持ちの資料では明治42年(1909)に神社が改築され、それを記念して京都から神輿を作ってもらったと記録にあります。額絵が百人一首というのも、やはりこの改築のための寄進だったのではないでしょうか。(神輿は個人の篤志家2名が払ったと記録にあるとのこと)
丁度100年前のことです。
傷みが激しい神社の建て替えの話がなかなか先に進みませんが、建て直しが実現した機会にでも補修等を施して、また展示されればよいなと思います。
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火産霊神社の祭礼の後は、南の山手に祭ってある金毘羅宮を祭り、再び火産霊神社に戻って境内の稲荷神社を祭ります。
稲荷神社の右に建っているのは私たち中町公民館が祭っている庚申塚です。
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稲荷神社の中にはこんな面白い味のあるものが祭ってあります。
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祭礼の後は境内で”なおらい”です。
今日も比較的暖かな気持ちの好いお天道様でした。
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☆夜は火産霊神社奉賛会の忘年会でした。
”夏祭り”で結びついた連帯感はいいものですね。
今日の額絵はやはり明治42年の改築のときのものだろうと言うことになりました。
丁度100年目にこうして私たちの関心を呼んだと言うのも何かの因縁ではないのか、と言うことになりました。
ぜひとも復元プロジェクトを立ち上げたいものです。
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私も気分よくカラオケを歌って楽しく過ごしました。

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