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パキスタンは食べ物もとても美味しく、人々もとても気さくで、10日近いラホールでの生活ではもう日本には帰らなくても好い、くらいの心地よい気持ちになりました。
独立記念の塔の建っている公園
独立記念公園に隣接したBADSHAHIモスク。
ブリキ板を切って叩き、鍋を作っている工房。
こちらではほとんどの製品制作がこうして道端で行われていて、歩いていてとても楽しいです。
ちょっと昔の日本も同じ光景でした。
小さな楽器工房。
シタールを作っていましたが、右手にある大正琴に良く似た楽器は、実はこんなラベルを貼ってパキスタンで販売するのです。
”EVER BEST JAPAN : BANJO”
パキスタンは日本と国交の深い国ですのでいろんな製品がほとんど日本製です。
ですから日本製というシールを貼ると・・・・いわば産地偽装製品ですね。
☆ラホールから200km行ったところに、インダス文明の主要都市遺跡、”ハラッパの丘”があります。
世界的に有名な遺跡なのに、それらしき看板もなく、観光客は私一人でした。
”ハラッパの丘”というので、私は小さな丘が連なった遺跡だと思っていましたが、丘というのはすべてが遺跡が風化して出来たものだったのです。
ですから”丘”は煉瓦や土器や石器の積もったものなのです。
現在でも非常に風化の激しいところでしたので、将来は形がなくなっていくのではないのでしょうか。
☆ここまで、もう立ち入れなくなったアフガニスタンの37年前の画像を紹介することからブログUPを続けてきたのですが、これからインドに戻ると長い旅で画像の紹介はキリがありません。
そしてインドはずっと自由に旅行できるところなので、とりあえず昔の旅の画像UPは一区切りつけます。
いつか、この若いときの旅日記と豊富な画像でHPか何か作りたいなと思っていますが。
でもスライドをスキャンできるようになって便利になったものです。
昔はスライド映写機にかけないと見れなかったのですから。
それで日本に帰ってからも、長い間、暑くなると後頭部がおかしくなってしまいました。
体調も狂ってしまったまま、ペシャワールから飛行機でアフガニスタン国境寄りのヒンズークシ山脈にある標高3800mのチトラルへ向かいました。
チトラルは遠くに雪を抱いた山々が見え、トレッキングに多くの人々が訪れるそうですが、ここも8月末はまだ日中はとても暑いのです。
丁度チトラルではお祭が開かれていました。
この地方はポロが盛んです。
ポロの発祥地だということでしたが、とても荒っぽい競技で、毎年1、2人はスティックで頭を叩かれて死亡するということでした。
お祭を見物に来た人たちです。
☆チトラルへ来てから、ずっと体調が悪く、何度も吐いたり、体全体が言葉で表現できない異常なきつさに襲われていました。
そしてチトラル滞在10日目になって、私の顔色が余りにも悪いので、旅仲間の皆から病院へ行くことを勧められました。
結果は黄疸でした。
そのまま現地の病院へ入院しました。
入院費は無料でした。
ヒンズークシ山脈の山中のチトラルでのベッド生活はとても貴重な経験でした。
私はそこで”風土”というものを否が応でも考えざるを得ませんでした。
☆祭は毎日続いていました。
入院した夜に、祭の広場から民俗音楽が延々と流れてきました。
翌日、病でほとんど夢遊病者の私は、その日も流れてくる音楽に惹かれて丘を下っていくと、一つ山向こうのカラッシュ渓谷からやってきた美しい民族衣装に身を包んだ少女たちが踊って居ました。
病でほとんど現実感のない私には、少女たちはまるで幻のようで、あまりにも美しく涙ぐんでしまいました。
カラッシュ渓谷の人たちはアレクサンダー大王遠征の末裔だという伝説があります。
そしてイスラム教徒ではなく、独自の多神教を信奉しています。
*カラッシュ族についてはこちらのブログに詳しいです。
シルクロード紀行
SLでカイバル峠へ チトラル・カフリスタンを訪ねる
☆そしてこの後私は再び飛行機でペシャワールへ戻り、MISSION病院へ入院しました。
この病院もチトラル同様に、入院治療費は無料でした。
この病院での入院中に、私は日本から持ってきたエネルギーのすべてを放出してしまって、骨と皮だけになり、歩くことも喋ることも、咀嚼することも飲み込むことも出来なくなってしまいました。
つまり私はペシャワールで再生したのです。
日本で彫刻を志すものにとっては、西洋のギリシャ彫刻と東洋の仏教が融合したガンダーラ彫刻を生んだペシャワールは、聖地にも等しく、生きているうちにどうしても訪ねてみたいところでした。
しかし、古のギリシャ文化の栄えた当時の面影は、現在のペシャワールには当然ながらうかがう事はできません。
これは路上のチキンスープ売り。
懐かしい昔の日本の鶏の脂ぎったスープと同じ味で、とても美味しかった。
中近東といえばシシカバブです。
ヴォリュームたっぷりですごく旨い!
カメラを向けるとすぐに人だかりが出来ます。
宗教的な対立抗争さえなかったら、イスラムの人々はとても純真で優しい人ばかりです。
みんな石を小脇に抱えて歩いていますし、その石を売っている店もあります。
舐めてみると、岩塩でした!
このあたりは海から遠いので塩は岩塩を使います。
お祈りの時間になると、こうして喧嘩さえもやめて、祈りをささげます。
ガンダーラ芸術の宝庫、ペシャワール美術館。
あのガンダーラ彫刻の傑作、骨と皮だけの姿で瞑想をする黒御影石の仏陀坐像もここに展示されています。
そして、これまでの画像からしばらく経って、私も骨と皮の状態でペシャワールの病院に収容されていました。
その経緯は、次の旅程で・・・
マザーリ・シャリフです。
確か、マザリに着いたのは夜でした。
イルミネーションに照らされたこの広場は、涼しかったのを覚えています。
夜が明けると、こんな夢のような建物が出現します。
マホメットの従弟である第4代のカリフ・アリーの廟、通称”ブルー・モスク”です。
日本を発つ前に、どうしても訪ねていきたかったところです。
イスタンブールのブルーモスク訪問のブログでも書きましたが、私にとって”ブルーモスク”とはこのブルーのタイルの美しいマザリ・シャリフのカリフ・アリー廟でしかないのです。
このブルーモスクは街の中心にあり、道路はここから東西南北に直線に伸びて、どこからでもモスクが見えるようになっています。
床屋さんです。
カキ氷屋さんです。こうした店に来るのは男だけです。
男たちはみんな手をつないで甘いものを食べに来ます。
路上で商いをするのはアジアではどこでも見られる風景です。
街外れです。ご覧のようにブルーモスクが街の真ん中に見えます。
振り返ると、もう広漠とした砂漠です。
つまり、砂漠からオアシスの中のブルーモスクが宝石の輝きのように見えるのです。
私は、これからもう一歩砂漠側へは足を踏み入れることは出来ませんでした。
そこはもう生きるか死ぬかの戦いの世界なのです。
☆マザーリ・シャリフは、現在では避難勧告の出されている危険地帯です。
通常の旅行者は決して立ち寄ることは出来ないようです。
それでもネットを検索すると、いまのマザ-リ・シャリフの訪問記がいくつか出てきます。
国際交流機構等で働いている方たちによる訪問記です。
画像を見ると、ブルーモスクは戦禍にはさらされず、無傷であの美しいブルータイルの輝きを見せています。
とても安堵しました。
しかし、今では異教徒はブルーモスクに立ち入ることは出来ないし、危険なので近づくことも出来ないようです。
あのアフガニスタンの砂漠には今でもこんな美しい世界が存在しているのです。
永遠ピースのために
☆マザーリ・シャリフはこの地域の中心都市ですが、州はバルフ州に属します。
バルフこそ、かつてアレキサンダー大王がこの地を占拠して、ギリシャ文化を中心に中央アジアに栄華を誇った大都市でした。
しかし13世紀に、ジンギスカンに蹂躙され、一人残らず虐殺されて壊滅してしまいました。
マザーリ・シャリフ近くに在る現在のバルフです。
その北はずれには、かつての城壁が残っています。
私が訪れたときは耐え難い酷暑でした。
途中のオアシスに立ち寄ったときに、人々は分厚い土の壁の家で、わずかな涼を感じてひっそりと暮らしていました。
この体験が、のちに強い陽射しを受けた分厚い石の扉がわずかに開いて、そこを風が抜けるというコンセプトの”The door of the wind”として形となったのです。
途中のチャイハナ(今で言うドライブイン)で休憩です。
とつぜん、頭上を怒号と共に物が飛び交います。
そうです、アフガニスタンはいろんな部族の集まりですから、一つのバスの中にいがみ合う部族が乗り合わせることもあるわけです。
彼らは皆、ゲリラよろしく機関銃を装備していました。
☆向かった先には、バンデアミール湖という、この世とは思えない世界が広がっていました。
砂漠の中に、突然、青い底なしの水をたたえた5段の湖が出現します。
ここはもちろん禁猟区で監視員が立っていましたが、旅仲間が釣り糸を垂らして魚を釣ってきました。
煙を出すと捕まるので、いぶし焼きにすると、燻製状においしく仕上がりました。
このバンデアミール湖にはもはや旅行者は訪れることは出来ないのか、と思っていましたが、タリバン政権崩壊後は結構旅人が訪れているようです。
ブログで鮮明な最新の画像を見ることが出来ます。
もっとも湖の周りは地雷だらけのようです。
バンデアミール湖の旅の写真
美しい!アフガニスタンのバンディ・アミール湖
イランはもちろん行ったことはありませんし、どこにあるのかも定かではありませんでした。
それで地球儀を廻してみると、今年行ったばかりのトルコの隣、そして若いころに旅したパキスタン、アフガニスタンにも隣接していることがわかりました。
私が若いころの貧乏バックパッカーは、インドから酷暑の中近東を抜けてイスタンブールからヨーロッパへ行くのが大道でした。
私は砂漠の余りの厳しさにイランへ抜けることは断念して、インドへ引き返しました。
その後、ソ連軍のアフガン侵攻によりアフガニスタンへはもう入れなくなり、その後のタリバンとアメリカとの戦いでかの地は荒れ果ててしまっています。
今回、思いがけずにイランに招待され、37年前に私の果たせなかった中近東ルートは、ここに貫通することになりました。
それで37年前のスライドをスキャンして、1974年当時のかの地の画像をしばらくUPしていこうと思います。
かなりスライドも劣化しカビだらけですが、今となっては貴重な画像でしょう。
☆アフガニスタンの地図です。
☆まずはあの有名なバーミヤンです。
タリバンによって大石仏が破壊されてしまったことは記憶に新しいところです。
1300年も前に玄奘三蔵法師も見上げたあの石仏はもう見ることが出来ません。
石仏は2つあり、この大きい石仏は53メートルありました。
かつては金色に輝いていました。
イスラム圏にある仏像は、偶像崇拝否定のイスラム教徒によってほとんど顔を失っています。
タリバンは、それでは気がすまなかったのですね。
仏頭部の周囲には鮮やかな仏画が多数残っていました。
石仏を見上げる位置にあったシルクロードの面影の濃いキャラバンサライ。
バーミアン渓谷はとても穏やかで平和な美しいオアシスでした。
いまはどうなっているのでしょう。
夜中に大変な雷雨があり、日中もどんよりと重い雲が覆い、寒い一日でした。
この白い旗はアメリカのアフガニスタン、パキスタンそしてイラク侵攻によって亡くなった今日現在でのアメリカ軍人の数だということです。
日記にも書いていますが、あのピーター・ポール&マリーのポールがミンディーさんのご近所に住んでいます。
ポールは敬虔なクリスチャンで、こうして定期的に教会でコンサートを開いているようです。
Blue Hillはかつては花崗岩の帆船による世界中への輸出、造船業、さば缶詰工場等によって大変に栄えた町でした。
そのころの、1830年代、40年代の家がまだ多く残っていて、いまだに現役として人々がそこで生活を営んでいます。
この古い町並みを下った先に私の彫刻設置場所の公園が在ります。
公園の敷地と彫刻の寸法の計測をしていませんでしたので、通訳の渡部さんに立っていただいて目安を測っているところです。
それを見ていたミンディーさんが、”私も!、私も!”とポーズをとりました。
とてもお茶目なミンディーさんです。
皆さんとは公園で別れて、採石場の跡を2箇所見に行きました。
最初は女流画家のウインディーさんの近くの採石場です。
彼女はこの採石場の石や、住まいの背後にある絶景の海景色を描いている画家で、とてもすぐれた作家です。ご主人は大学教授ということでした。
続いて昨夜訪れたClewsさんを再び訪れました。
これが彼女が一人で建てた家です。
Clewsさんの裏手も採石場の跡なのです。
☆午後にウインディーさんにシンポジウム会場まで送ってもらいました。
そして早速、近くの採石場に私が使う予定の石を見に行きました。
しかし幅は250cmありましたが高さが170cmしかなく、使うのは断念しました。
☆宿舎へ案内してもらいました。
使う予定だった海軍施設は使用料が高くなり、今回はこの海岸にあったさば缶詰工場の社長の大邸宅だった一軒家を借りることになったそうです。
まず朝食をBlue Hillの彫刻委員会の皆さんと摂り、私のパソコンで私の作品や活動紹介のプレゼンテーションを行いました。
☆引き続いてロブスターボートでBlue Hill湾を案内していただきました。
案内はずっと祖先からこの地に住み、この地の歴史に詳しいダニーさんです。
彼は港湾管理員や消防団長の要職を務めながら、Bulue Hill弁で歴史を語ってくれる地元の有名人だということです。
そして今日は日系三世のダーナ・玉木さんに通訳を務めていただきました。
海沿いにはこうした別荘が立ち並びます。
Blue Hillは避暑地なのです。
結構有名な方たちの別荘もあるようです。
このボートのオーナーの奥さんのダーナさんとミンディーさん。
ロブスターを獲っているロブスターボート。
Blue Hillには約600人のロブスター漁師が居るということです。
☆この小さな山がBlue Hillです。
石組みの舟着き場がかつての花崗岩の船積み場だったところです。
突き当たりが私の作品の設置場所のEMERSON PARKです。
このロブスターボートも、海の上からも見える彫刻を考えて欲しいというBlue Hill彫刻委員会の皆さんの想いから企画されたものです。
メインストリートからはこんな風に見えます。
☆お昼は近くの公園でテイクアウトの食事を摂りました。
私はロブスターロールを食べました。
もの凄いヴォリュームです。
多分、昨夕食べたロブスターの倍の量はあります。
皮から身をはがさなくて好いので、地元の人はこちらを好むということです。
☆町の中にこんな看板が。
”あなたのことよ!”とミンディー。
そうなんです、午後から1時間ほど設置場所でのBlue Hill町民と私との出会いの場が設定されていたのです。
そして、なんとタウンホール(町役場)の掲示板にも告知がしてあったのです。
☆午後からの集会には多くの町民に来ていただきました。
”Hitoshi、あなたはBlue Hillのスターよ!”とミンディー。
Blue Hillの方々が私の彫刻設置を心から歓迎し、待ち望んでおられることを強く感じたひと時でした。
☆さらに夕刻からは、このシンポジウムへの協力金を集めるための集いが催されました。
Blue Hillは高級避暑地ですので、小さなヴィレッジにもかかわらず文化教養のレベルの高いハイソサエティーのお金持ちが多いのです。
シンポジウム・ディレクターのジェシーがプロジェクターを使って、シンポジウムの準備の様子や参加作家の作品を紹介し、資金協力をお願いしました。
来場者の質問の中に、なぜBlue HillはTanakaを選んだのか、というものがありましたが、私の作品は最初の段階でBlue Hill彫刻委員会の方たちに支持され、幾つかの設置候補場所の中から私の作品に最もふさわしいEMERSON PARKに決定した、という報告もありました。
☆夕食を持ち帰りのシーフードで摂ることになりました。
この店はBlue Hillで最も安くて美味しいと評判の店だということです。
☆夕食は彫刻委員会のメンバーのClewsさんのお宅で摂りました。
なんとこの家は、彼女が一人で3年がかりで建てたのだということです!
通訳の玉木さんご夫妻の話では、こちらではそれが普通で、こちらの人はなんでも自分で作ってしまうのだそうです。
左からClewsさん、通訳のダーナさん、ダーナさんのご主人の玉木さん、ミンディーのご主人のディックさん、そして”私たちの仲の良い写真がHitoshiのブログに載るわよ!”とのろけるミンディーさん。
☆昨日、無事にアメリカ・メーン州に着きました。
これから6週間のschoodicシンポジウムの様子を出来るだけ報告できればと思います。
昨日は私の作品を設置するBlue Hillという町へ直行し、この町での彫刻委員会の会長を務めておられるミンディーさんのお宅にお邪魔し、Blue Hillを案内していただきました。
私はミンディーさんのお宅で2泊のホームステイをさせていただきます。
Blue Hillはリアス式の海岸に面したとても美しい町です。
☆ミンディーさんのお家ももちろん海に面しています。
こちらの海岸沿いは昔は氷河が流れてきていて、それで海岸の砂利は氷河が運んできた色んな地域の石で組成されているということです。
また岩盤の花崗岩の大地を氷河が削っていたので表土が少なく、花崗岩が切り出しやすく、かつては花崗岩の採石で繁栄したということです。
ニューヨークなどの街の石組みの石は、ほとんどこの地方から搬出したものだということです。
ミンディーさんの家です。
☆私の作品の設置場所を案内していただきました。
Blue Hillの中心地にある海沿いの公園です。
この公園には私の作品が一番ふさわしいということで、私を選んでくださったそうです。
☆出来れば、このBlue Hillから産出する花崗岩も作品の一部に使って欲しい、ということでかつての丁場(採石場)へ案内していただきました。
☆現在はこの採石場一帯をリタイアされた老夫婦が購入されて、家を建てられ、採石場の石を使って庭園を造る作業をされていました。
この家のご主人はインターナショナルな会社を経営されていて、何度も日本を訪れておられ、大の親日家です。
家の内装にも襖や障子が使われ、庭も日本庭園の趣向が凝らされていました。
周囲が松林ですので、日本的な景観を感じます。
私のためにシャンパンでウエルカムパーティーを開いていただきました。
時差ボケでふらふらでしたが、松林の中を歩いて英気を貰いましたので、なんとか正気を保てました。
左からこの山荘のご主人、私、シンポジウムのディレクターのジェシー、ミンディーさん。
☆夕食をBlue Hillの町のレストランでいただきました。
このレストランからも私の彫刻設置予定場所が見えます。
私はこの地方の名物、ロブスターのゆがきをいただきました!